財団法人ワンコリアフェスティバル設立準備シンポジウム

竹田青嗣さんと朴元淳さんが語る人間の未来と希望
  東アジアにおける市民社会の可能性


開催報告 l 設立に向けて



  1985年、民族解放40周年を機に、新しい統一のビジョン創造を目指し「ワンコリア」を掲げて始めたワンコリアフェスティバルも、いまや4半世紀を重ねてきました。
当時、40年にわたる祖国の分断と対立は、いつ終わるともしれない膠着状況であり、統
一に対してもっとも希望の見えにくいころでした。そのような中で、在日コリアンの世代交代が進み、2・3世が中心の若い世代は、統一に対して関心も薄れていました。そこでワンコリアフェスティバルは、新しいビジョンの創造とともに、新しい方法、新しいイメージも創造しょうとつとめました。とくに若者が興味をもてるロック、ジャズなど現代音楽や映画、演劇、絵画など現代アートを中心に開催することによって、統一を身近に感じることができる新しい方法とイメージを発信してきました。「ワンコリア」という英語をあえて使ったのもそのためでした。また、コリアの言葉では統一「トンイル」ではなく、「ハナ」(ひとつ)で表したのもそのためでした。
また、悪戦苦闘しながら模索した新しい統一のビジョンは、90年代はじめにようやく明確な像を結ぶようになり、今日に至っています。それは、「〈38度線〉のない日本で住む在日コリアンがまず『ハナ』となってワンコリアのシンボルになり、祖国南北、海外コリアンのパイプ役としてワンコリアの実現に貢献するとともに、究極においては『世界市民』に連なる『アジア市民』創出のための『アジア共同体』を目指す。」というビジョンです。
 このビジョンを具現するため、90年に韓国の金徳洙サムルノリと朝鮮民主主義人民共和国の金正規氏による初の「南北共演」を、翌年には在日韓国青年会と在日本朝鮮吹奏楽団の同時出演を、その後もオモニ合唱団や民族学校生徒の出演等様々な形で「南北共演」を実現してきました。93年からは、例えば「ワンコリア・パレード」「ワンコリア囲碁大会」「川崎ハナフェスティバル」「大阪ハナ・マトゥリ」など朝鮮総連と韓国民団が直接合同行事をする場合にも「ワンコリア」や「ハナ」が使われるようになりました。「ワンコリア」と「ハナ」は、統一のシンボルとして確立され、定着してきたのです。
 ビジョンのもう一つの柱である「アジア共同体」も、提唱した当初は、「大東亜共栄圏」を連想すると反発されたり、しょせん夢物語といわれたりしましたが、いまでは「東アジア共同体」に収斂される形で現実の政治的、経済的課題として活発に論議されるようになっていることは周知の通りです。
 この4半世紀の間、ワンコリアフェスティバルは毎年1回も欠かすことなく続けられてきました。最初の1年目3日間で延べ1000人にも満たない出発でしたが、スタッフや関係者の努力により年々拡大・発展してきました。99年の生野コリアタウン開催からは1万人規模となり、2002年から大阪市の招請により現在の大阪城公園・太陽の広場に移ってからは、2万人規模に、「韓流」も取り込んでいる今では一日3万人もの人々が集まるイベントに成長しました。第10回目の94年からは東京でもワンコリアフェスティバルを開催し始め、これまで14回を数えています。2004年からは東京在住の在日コリアンと日本の学生たちが自主的に運営、開催するようになり、代々木公園を会場に、こちらも2万人規模のイベントとなりました。1998年にはアメリカでも開催し、同年韓国・義政府市でこれも数万人規模で開催されていた同名の「ワンコリアフェスティバル」との交流も始まり、毎回朴保バンド、沢知恵、田月仙、李静美さんら在日コリアンのアーティストも出演するようになりました。他にもシンポジウムやフォーラム、トークショウ、映画上映会、講座など様々な特別行事も数多く開いてきました。ユニークなところでは、2002年に料理の鉄人で有名な道場六三郎さんと韓国宮廷料理の第一人者の黄福順さんをお招きし、直接調理していただいたお雑煮とトックの食べ較べをする料理イベントも行いました。限定100人の募集に約5000人もの応募者が殺到しました。
ワンコリアフェスティバル25年間の参加者は、延べ30万人以上にもなるでしょう。
また、在日コリアンの催しでワンコリアフェスティバルほど新聞、雑誌、出版物、テレビ、ラジオなどのメディアに数多く取り上げられたイベントもないでしょう。日本はもちろん韓国でも世間の注目を浴びた特集記事や番組も数多くありました。中でも99年に朝日新聞が、毎回紙面の半分以上を割いて4日間連続特集記事を組んだのは画期的でした。また、20世紀から21世紀をまたぐ年のNHK「ゆく年来る年」にワンコリアフェスティバル新年会の模様が生野コリアタウンから生中継されされたのも忘れられません。本来ナレーションだけの静かな同番組で、ワンコリアフェスティバルのテーマソング「ハナの想い」(作詞康珍化・作曲吉屋潤)の合唱と「21世紀のワンコリアを目指して頑張りましょう。ハナ!」の呼びかけとともに参加者全員による「ハナ!ハナ!ハナ!」のかけ声が全国に放映されたことも、大きな話題になりました。ちなみに、第2回目のワンコリアフェスティバルからはフィナーレではかならず参加者全員でこの「ハナ・コール」で締めくくります。多彩な演目や多様な催しの最後を、参加者全員が一体となってワンコリアやアジアの平和を願う気持ちで、「ハナ・コール」で締めくくるのです。
また、出演、作品提供、メッセージ、エッセー、対談、座談など様々な形で実に多彩な各界各層の方々が、ワンコリアフェスティバルの運動に参加、協力してくれました。数多くの著名人、たとえば、梁石日、黒田征太郎、小林恭二、伊集院静、鷺沢萠、俵万智さんら多くの作家が自身の持つメディアや媒体でも積極的に書いてくれたことによる効果も非常に大きいものがありました。
以上のようなメディアを通してワンコリアフェスティバルに触れた人々は、文字通り数え切れません。
それだけでなく、各界各層の個性的で優れた人々との出会いと交流は、ワンコリアフェスティバルに多くの刺激と示唆と勇気を与えてくれました。たとえば、ワンコリアフェスティバルの司会もしてくださった永六輔さんは、「僕がワンコリアという言葉に感じるのは、政治的なことだけじゃなくて、例えば男と女がワン、あるいはキリスト教と儒教がワン、受け継いできた文化や伝統といった部分をワンにしていかないといけないなと思う」(93年パンフレットより)と語り、東京大学教授の姜尚中さんは、ワンコリアフェスティバルについて「単に二つの国家が一緒になることではない、広場、色んな人々が出会う場。それは色んな記憶を持った人々が出会う場であると思う」(2000年「南北首脳会談歓迎ワンコリアフェスティバル東京」におけるスピーチより)と指摘されました。このような多くの応答によって「ワンコリア」は、単に祖国の統一を意味するだけでなく、「出会い」、「広場」、「調和」、「多様性」、「寛容」、「コラボレーション」、「個性」など、様々なイメージを孕んだ豊かな統一のイメージを育んできたといえるでしょう。だからこそワンコリアフェスティバルは、幅広い広がりをもつことができたといえます。
またワンコリアフェスティバルは、在日コリアンが民族の一員としてだけでなく、なにより市民の立場から、なによりも市民的自由や人権、民主主義など人類の普遍的な価値観が実現される統一を目指しています。夢と理想をもち、その実現に向けて努力すべきであると考えるからです。その理想は、先のビジョンが理念として示している「アジア市民」に集約されています。アジア市民をテーマとして、93年に竹田青嗣、文京洙、川村湊、鄭太均さん4人の論客による座談会をもち、市民の概念を歴史的、思想的、社会的に整理し、アジア市民実現の条件と可能性を論じたことは、ワンコリアフェスティバルの理念的、思想的な成果といえるでしょう。その後も「アジア共同体」をテーマとする本格的なシンポジウムを3年連続で実施しましたが、在日における「アジア共同体」の議論をリードする役割を果たしていると評価されました(『環』2002年秋号所収「コリアン・ネットワークと『在日』」玄武岩・現北海道大学助教授執筆)。ちなみに『環』は藤原書店が刊行している学芸綜合季刊誌で、この時の特集は、「歴史のなかの『在日』」でしたが、その年表にもワンコリアフェスティバルが85年に始まったことが記載されました。同じ2002年出版の『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』にも「ワンコリアフェスティバル」の事項項目で取り上げられました。これ以後、雑誌、出版物のコリア関連年表においてワンコリアフェスティバルが記載されるようになりました。さらには、日本の教科書「新編新しい社会・公民」(東京書籍)にも記載されています。ワンコリアフェスティバルも歴史の1ページに記されたといえるでしょう

さて、この4半世紀、世界も劇的なまでに大きく変わってきました。1985年、硬直した社会主義の改革を目指したゴルバチョフの登場は、戦後長く続いた東西冷戦の終結をもたらしただけではなく、ドイツ統一と東欧社会主義諸国およびソ連邦自体の崩壊へと激動していきました。
それは、祖国南北コリアにも大きな変化をもたらし、韓国はソ連邦続いて中国と国交を結び、朝鮮民主主義人民共和国も日本とアメリカとの国交正常化を模索し始め、韓国と朝鮮民主主義人民共和国は、国連に同時加盟し、南北の対話と交流も活発になっていきました。2000年と2007年の2度の南北首脳会談も実現しました。
また、近代の国民国家の統合という人類史的実験ともいえるヨーロッパ共同体(EC)は、その統合を深化させ、ヨーロッパ連合(EU)へと発展しました。その後、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの北米自由貿易協定(NAFTA)をはじめ、世界各地で地域統合の模索の動きが活発になっていきました。このことは同時に、戦後のガットなど普遍的経済ルールの守護者としてのアメリカ合衆国の立場が弱まり、世界が多極化へと移ってきたことを意味しています。こうした世界の変化の中で、アジアは時に経済危機に見舞われながらも、急速な経済発展を遂げつつあります。中でも中国の台頭は目覚しく、多極化の一角を占めるまでになりました。
85年当時、誰がこれほどまでの世界の変化を予想できたでしょうか。ワンコリアフェスティバルの4半世紀の年月は、まさにこの激動に、在日コリアンの立場から主体的に、また先駆的に対応してきた年月でもあったと自負しています。
この間、在日コリアン社会の状況もまた大きく変化しています。2世は高齢化して3・4世が中心世代となり、日本国籍取得、日本人との国際結婚の増加により在日コリアン全体の人口は減少する中で、韓国からのニューカマーや中国からの朝鮮族が急速に増えてきました。こうした変化の中で、ワンコリアフェスティバルは、スタッフ、出演者も在日コリアン、ニューカマー、日本人がともに協力しあえるようにしてきました。そこにはいろいろな齟齬や軋みもあると同時に刺激と発見もあり、いわば内なる多文化共生を楽しく実行している場といえるでしょう。
こうして振り返れば、ワンコリアフェスティバルの歴史は、夢をもち、高い理想を掲げ、先駆的なビジョンを提示し、それを音楽や舞踊など文化をとおして楽しく、イメージやシンボルの形でできる限りわかりやすく具現化することに努めてきた4半世紀であり、そのことによって、ワンコリアへの共感と支持を広めることに寄与できた4半世紀であったといえるのではないでしょうか。と同時にワンコリアフェスティバルは、在日コリアンが、祖国南北と日本のはざ間で翻弄されるだけの存在ではなく、アジアや世界に目を向け、世界に開かれた心をもち、ワンコリアにも日本社会の変革にも、さらにはアジアの発展と世界の平和にも貢献できる存在であることを訴えてきました。若い世代のなかにそうした意識も確実に育ってきています。
とはいえ、ワンコリアフェスティバルのビジョン実現には、なお多くの困難と試行錯誤がこれからも求められるでしょう。
ワンコリアフェスティバルは、これらの成果を踏まえ、ビジョンに掲げるワンコリアと東アジア共同体実現のために、今後は「財団法人ワンコリアフェスティバル」と名称を新たにし、さらなる発展を期して新しい一歩を歩み出していきます。