「潤(ユン)の街」からの出発、
そして
「ひかり」
へ。

金 佑 宣 (映画監督)
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映画『潤(ユン)の街』は、在日コリアンの住居が密集する大阪の生野区を舞台にした映画である。日本の高校に通う16才の在日三世・潤と、高校を卒業したがラグビーばかりしているフリーターの日本の青年とのラブストーリーである。

当時の映画企画書で、私は次のように書いた。
「…長い日本映画の歴史のなかで登場してきた在日コリアン像−−それは、『キューポラのある街』のおかしくも悲しい帰国者の一家であり、『にあんちゃん』の炭坑でたくましく働く兄妹たちであり、『戦争と人間』の孤独なパルチザン、『青春の門』のニヒルな労働運動家、『絞死刑』の李珍宇的人物、また、やくざ映画に多く登場するアウトローたち、そして、大ヒットした『戦場のメリー・クリスマス』のなかで、ホモ行為におよび切腹させられる金田と名乗る朝鮮人軍属等々、多様であります。

そこには、当然のことながら、日本人の眼から見た共通の在日像が浮かび上がってきます。それは、日本帝国主義に虐げられてきた悲劇の民族であり、差別と貧困ゆえの薄幸の民であり、そして、ニヒルなイメージを背負ったアナーキーな人々でありました。…しかしながら、私は、日本映画界で仕事を続けるなかで、これらの作品群に対し、強い共感と同時に、猛烈な反発を感じ続けてきました。それはとりもなおさず、私が日本人ではなく、在日コリアンであるということであり、かつ、こよなく映画を愛する映画人でありながら、何もなしていないという自責の念にほかならなかったのでしょう。

私は、決意しました。いつか必ず、私自身の手で、私たちと同じ血のかよった在日コリアン像を、日本のスクリーンに登場させるのだと。それは、キムチを頬張り、焼き肉を死ぬほど食い、大酒飲みで、歌と踊りが大好きな人々であり、年がら年中、政治議論を交わし、すぐに大喧嘩を始める人々である。また、家族をこよなく愛し、見果てぬ故郷(くに)をいつも夢見ている人々であり、乱暴者で、儒教・封建主義の怪物のような人々であり、そしてまた、どんなに日本社会の苛酷なメカニズムに組み込まれようが、いつもプライド高く、旺盛な反抗心で時代を生きぬく人々である。これらの人間群像を、日本の、いや世界のスクリーンに堂々と登場させる時代を、そういった映画界をつくろうと決意したのです。…」

いま読むと、時代的に少し古くなっているところもあるが、映画『潤(ユン)の街』にこめた思いは、まさにこの通りである。被害者意識をもった、暗くジメジメした負のイメージには、もううんざりしていた。強く新しい在日像を、それも、明るく元気な主人公を中心に、戦争のことなど何も知らない若者たちが、多く見てくれるような爽やかな青春映画を作りたかった。

日本とコリアとの間には、不幸な歴史があり、その傷を負う人々がまだまだ多く、差別も残っている。しかし、そうした不幸な関係を乗り越えて、私たちが未来に向けてどうやって進んでいけるかを、在日の少女と、日本の青年が、どうやって人間として真っすぐに向き合い、どうやって自分と相手を発見していけるのかを、描いてみたかった。二人の間には、大きな壁があり、それが二人の恋愛を妨げるし、同時に安易な理解をも拒絶する。だからこそ単なるラブストーリーをこえた痛みと爽やかさをもって迫ってきたはずである。この映画を準備する過程において、私が絶対譲れなかったことが、三つある。

一つ目は、主人公の少女役を、実際に日本の学校に通っている在日三世の子を使うことであった。演技力よりも、本人自らが抱えるアイデンティティーを追求したかった。半年以上をかけて、のべ三千人以上のなかから主人公を選んだ。

二つ目は、現在日本の映画界で活躍している在日の映画人を結集させることだった。監督、プロデューサー、脚本、撮影、制作、助監督、俳優など、そうそうたるメンバーが協力してくれた。

三つ目は、劇場公開すること。日本映画界では、まだまだ戦争、天皇、部落差別、コリアンなどをテーマにしたものには、興業面で劇場側の壁が厚く、ホールや公会堂などで自主上映を強いられてきた。黒人・ユダヤ人・インディアンなどの映画が、どんどん製作され公開されるアメリカ映画界とのギャップを痛感した。結果、大きなリスクはあったが、首都圏・地方都市での劇場公開を実現した。

これらの目標は、悪戦苦闘の末、すべてクリアー出来たが、いま思うに、この映画作りは、映画そのものをつくるというよりも、日本映画界、ひいては日本社会に対し、「在日コリアンの映画が登場したのだ」という、自らのアイデンティティー宣言」そのものの面が私にとって重要な意味を持っていたような気がする。今の私には、はなはだ不遜な言い方かもしれないが、監督として、政治的にも、表現的にも、不純なものが入りすぎて、納得のいく作品にはなっていない。しかし、「在日の映画」の時代を大きく変えた自負は、だれにも負けない。でも、映画は理屈ではなく、映画なのだ。私の心は、NEXT IS BESTである。

新作映画『ひかり』が、進行している。一九五〇年代の物語である。なぜ、こんな時代のものを?

戦後50年を迎える今日になっても、日本では未だに「戦争責任・戦後補償問題」が議論されている。従軍慰安婦問題、サハリン残留者問題、被爆者問題、強制連行の実態調査など、日本と朝鮮半島との「清算されなかった昭和」が、連日マスコミを騒がせている。日本の政治の「戦後決算」によって、一時期、抹殺されたかに見えたこれらの問題が、にわかに、再浮上してきたのは、戦前政治の象徴であった昭和天皇の死去、在日コリアンのみならぬ在日外国人の急増するなかにあって、日本社会の真の国際化、アジア諸国との真の友好が、今まさに問われているからであろう。

そんな「清算されなかった昭和」の再検討という大きな潮流の中にあって、私は、この映画『ひかり』を企画した。映画の背景となっている一九五二〜五三年という時代は、日本にとって、まさに激動の時代であった。日米講和条約・日米安保条約の発効による国内の大混乱の中で、独立国家への道を歩み始めた日本。朝鮮半島では、同族が殺しあう、苛酷で、悲劇的な戦争が勃発していた。この時期こそが、まさに、戦後50年近くを経た今でもなお、日本の「戦争・戦後責任」を問われている政治姿勢を決めた、最も重要な歴史の分岐点だったように思われる。

私は、このドラマチックな時代を舞台に、貧しくとも、逞しく生きた庶民の生活を描きながら、この50年近い歳月の中で、誰にも知られず、ひっそりと死んでいった人々の姿を浮かび上がらせ、もう一度、「清算されなかった昭和」の意味を問い直そうと思っている。在日コリアン、日本人、アメリカ人のささやかな愛と死が、少年と少女の目を通して描かれる。その厳しい時代を、激しく、懸命に生きた人々の姿が、観る人々の心の奥底に狐み入るような映画として、完成させたい。

サタジット・ライ監督の『大地のうた』、ルイ・マル監督の『さよなら子供たち』、ホウ・シャオシェン監督の『童年往事』の世界のように−−

(1994)


金 佑 宣 (きむ・うそん)
1952年生まれ。
早稲田大学卒業後、山本蕗夫の助監督などを経て、
89年「潤(ユン)の街」で監督デビュー、
同作品で映画監督協会新人賞を受賞した。


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