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門 間 貴 志

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◆ 在日リアンの登場する日映画

れまで、日本映画には多くのコリアンが描かれている。帝国主義の日本が朝鮮に植民地政策を敷いていた戦前戦中までは、朝鮮人は建て前としては日本人が庇護すべき人々として描かれる傾向があった。

田坂具隆監督の『この母を見よ』(30年)、
清水宏監督の『有りがとうさん』(36年)、
五所平之助監督の『花篭の歌』(37年)、
千葉泰樹監督の『煉瓦女工』(40年)、
木村十二監督の『彦六大いに笑う』(40年)

といった作品に朝鮮人たちの姿が登場する。日帝時代は朝鮮の映画会社は全て朝映という国策映画会社として統合された。映画でも38年以降朝鮮語の使用は禁じられ、「内鮮一体」をPRする映画が多く撮られた。今井正監督もここで『望楼の決死隊』(43年)を撮っているが、朝鮮と旧満州との国境、鴨緑江(アムノクカン)を守る警備隊が匪賊として描かれた朝鮮独立闘争パルチザン部隊の攻撃を撃破するという物語で、国防の重要性を説く国策映画であった。多くの日本の映画人たちも国策映画の製作にたずさわることになった時代であった


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日本の敗戦で朝鮮が解放されると、贖罪意識も働いてか、日本映画もコリアンの描き方を一変させた。植民地支配や民族差別を過誤として反省する立場を明確にした作品が現れ始めた小林正樹監督の『壁あつき部屋』(56年)は、朝鮮人の戦犯を生んだ墓民化政策を断罪した。他にも内田吐夢監督の『どたんば』(57年)などがある。また今井正監督の『あれが港の灯だ』(61年)は、「在日」のアイデンティティの問題をとりあげ、日本人の朝鮮に対する無理解ぶりを表した。

森園忠監督・片岡薫脚本の『オモニと少年』(58年)という中編映画がある。朝鮮人のおばあさん(北林谷栄)が、孤児となった日本人少年を引き取って育て、そして心の絆が生まれていく。差別と偏見の打破を伝えた佳作であり、スタッフの誠実さと北林谷栄の名演が光る。

今村昌平監督の『にあんちゃん』(59年)は、北九州のとある小炭鉱の街を舞台とした在日コリアンの一家の物語である。ここでは、亡くなった父に代わって、妹二人に弟一人を養うために長男の喜一(長門祐之)が炭鉱の臨時雇いとして働く。しかしなかなか本採用にはなれず、不景気になると真っ先に解雇されてしまうという場面もある。原作は在日コリアンの少女・安本末子のベストセラーとなった手記である。

浦山桐郎監督・早船ちよ原作の『キューポラのある街』(62年)にも在日コリアンが重要な役で登場している。鋳物工場で働く父を中心に家族四人で慎ましく暮らす主人公の中学生ジュンへ吉永小百合)には、在日コリアンの同級生良枝がいる。良枝の弟の三吉は、ジュンの弟の孝之と仲良しである。良枝の父は折しも盛んだった帰国運動により帰国を考えている。が、良枝の母は日本人で帰国には消極的である。彼女にとっては異国なのだ。やがて良枝の一家が朝鮮へ帰国する日が来る。見送りに来た孝之は餞別として一袋のビー玉を三吉に渡す。なかなか泣かせる場面である。

野村孝監督の『未成年・続キューポラのある街』(65年)では、日本の高校生と朝鮮高校生が険悪な雰囲気になるという場面がある。朝鮮高校生はぐっと我慢し、高校生になったジュン(吉永小百合)に「挑発には乗らない」と言う。ジュンがこの凛々しい若者をじっと見つめるまなざしが印象的である。在日コリアンが正々堂々と生きる姿で描かれた数少ない日本映画である。この映画から30年がたった現在、民族学校の女子生徒が通学時に着るチマ・チョゴリが切られ、嫌がらせを受ける事件が各地で起こった。日本社会での人権と国際化の中身が問われている。

また一方で、大島渚監督は在日コリアンの問題を積極的(あるいは過激)に自分の作品に取り込んでいった。韓国で撮ったスナップ写真を構成したユンホギの日記』(65年)や、日本軍人として徴兵され傷つきながらも戦後に何の補償もされず、苦しい生活を強いられている在日コリアンのドキュメンタリー忘れられた皇軍』(63年)などが知られている。ここで取り上げられた間題は今もなお解決していない。今年(1994)の7月、二人の元軍属・石成基、陳石一(今年(1994)5月に死去)によって起こされていた在日韓国人障害年金訴訟が東京地裁で棄却された。裁判を傍聴していた大島渚は「無責任を放置する国家の構造に改めて怒りがわく。そしてそれを許している我々日本人を恥ずかしいと思う」とコメントした。また大島渚は58年に起きた小松川事件を材に採った絞死刑』(67年)を発表。コリアンの青年死刑囚を登場させ、国家と個人の関係や民族差別の問題を問いかけた。


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歴史認識の欠如から来る無知ゆえ偏見を広げてしまうような作品もあったが、その一方で朝鮮問題が映画の題材として取り上げにくい状況にあって、誠実な作品を作る映画人もいた

山本薩夫監督の『戦争と人間・第二部/愛と悲しみの山河』(71年)では、中国東北地方で独立のため日本軍と闘う朝鮮人パルチザンの姿が描かれている。森川時久監督の『わが青春のとき』(75年)には、植民地支配下の朝鮮の小都市を舞台に、地下抵抗運動をしている朝鮮人の恋人同士(井川比佐志と夏圭子)が、朝鮮語で会話する長い場面がある。

熊井啓監督の『黒部の太陽』(68年)には、強制連行があったことが短く触れられており、また地の群れ』(70年)では、チマ・チョゴリ姿の在日コリアン女性が重要な役で登場する。


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70〜80年代になると、コリアン像も幾分多様化を見せ始める(中には相変わらず偏見に満ちた作品もあったが)。大きく分けると、文芸もの、任侠もの、ドキュメンタリーなどである。

ドキュメンタリーの分野では、かなり以前からコリアンについて取り上げた作品が多く見られる。京極高英監督の『朝鮮の子』(55年)宮島義勇監督の『チョンリマ(千里馬)』(63年)布川徹郎監督の『倭奴(ウエノム)へ在韓被爆者−無告の二十六年』(71年)山谷哲夫監督の『うりならまんせい』(77年)沖縄のハルモニ証言・従軍慰安婦』(79年)などがある。


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80年代になると、日本の戦後処理に関する作品の増加が顕著である

盛善吉監督の『世界の人へ朝鮮人被援者の記録』(81年)世界の友へ朝鮮人核爆者金在甲氏の記録』(85年)などがある。また滝沢林三監督は『イルム…なまえ朴秋子さんの本名宣言』(83年)で、日本社会の差別政策と偏見に屈せず本名を名乗って生きようとする朴さんの生きざまをとらえた。一方、日本に朝鮮から人と文化が多く入り影響を与えたという古代日朝関係史を検証した神々の履歴書・日本の中の朝鮮文化』(88年)を前田憲二が撮っている。

井筒和幸監督の『ガキ帝国』(81年)は、大阪を舞台に、いわゆるツッパリ高校生(島田紳助)たちを描いた青春映画であるが、在日コリアンの高校生たち(趙方豪、他)も登場する。彼らが朝鮮語で会話する場面も多く、画面には日本語の字幕が流れた。

小栗康平監督の『伽耶子のために』(84年)は、原作は在日の芥川賞作家・李恢成。昭和三十年代の北海道と東京を舞台に、在日二世の青年林相俊(呉昇一)と、コリアンと日本人女性に育てられた日本人養女・伽耶子(南果歩)との恋と別れを描いている。伽耶子の養父・松本秋男(浜村純)は、本名を鄭舜秋という一世で、相俊の父・林奎洙(加藤武)とは共に玄界灘を渡って来た親友同士でもあり、共に終戦を樺太で迎えて北海道に引き揚げたという設定である。コリアンが登場する日本映画でこれほど知的に人間の内面までをも描いた映画はなかったであろう。人間と時代を深く見つめる小栗康平の表現者としての資質がよく表れた作品である。また在日の作家の原作を映画化した初の日本映画でもある


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テレビドラマにもコリアンの登場は多くなっている。フジテレビのドラマ金(キム)の戦争』(91年)は、本田靖春の著書『私戦を底本にし、金嬉老事件の経緯を映像化した異色ドラマである。金嬉老役にビートたけしを起用し話題を集めた。当時隠蔽されようとした民族差別問題を扱った力作と言える。

またフジテレビは1970ぼくたちの青春』(92年)で、朝鮮に帰国する同級生金山仁(筒井道隆)を登場させている。90年の大晦日、主人公の西脇(風間社夫)はかつての級友金山からの絵葉書を読んでいる。「同窓会に出席できなくて残念だ。僕は今、国家建設の為に頑張っている。みんなによろしく伝えてくれ。会いたい。君達に会いたい。いつか遠くないいつかきっと会える。そう信じている」と書かれている。その消印は平壌である。

岡崎栄演出のNHKドラマ『エトロフ遥かなり』(93年)では、抗日レジスタンスの朝鮮人金森(金守珍)が登場し、抵抗運動に関わり壮絶死を遂げている。また以前にはNHKスペシャル『わが祖国・ある日本人禹長春』(91年)で、戦後の韓国農業の発展に貢献した在日韓国人農学者・禹長春博士の半生を紹介している。原作は角田房子の著書『わが祖国禹長春』である。岡崎栄の演出には日本人とコリアンの関係を前向きにとらえようとする真摯な姿勢があり、作品は感銘深い。

 

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