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ワンコリアワンアジアワンワールド


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均一化からの脱却は 可能か。

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竹田●やはり日本の戦後思想は、基本的に「加害者であった」というところから出発しているわけです。そして、韓国に戦後思想があるとすれば、それは日本と逆に「被害者であった」ことから出発している。それは、確かに川村さんがおっしゃったように文学に出たからどうのという問題ではないけれども、韓国ではそういう文学すらほとんど表れないというのも……。つまり、国民全体の感受性の質が「ひどいことをされた」というところに根差しているから、自分達が別のところでは加害者の体質を持っていることに気づくまで相当の壁があるのではないか、と僕は思いますね。

鄭●●しかもその壁が、戦後から80年代の後半までにどんどん高くなっていったと思うんです。1945年当時の韓国人と現在の韓国人を比べると、昔の方が多様性があった。例えば韓国語にしても、昔は日本語アクセントの韓国語もあったし、中国語アクセントの韓国語もあった。あの頃の韓国語と比べると、今の韓国語はなまりも少なくなっていますし、なまり以上のアクセントの入っている韓国語は韓国語と認められなくなっている。結局、韓国人はそういう面で全般的に一様化してしまって、外の問題を理解するのが難しくなる面があったんですね。ですから80年代後半にやっと、それとは少し違う傾向が出始めたところじゃないでしょうか。

文●●それはそのとおりですね。例えば在日のことを考える上でも、在日を本国の韓国人と同質の韓国人と見られたら困るわけでしょ。要するに、同じ朝鮮民族と言っても内実は多様なわけです。ですから統一を考えるにしても、いろんな朝鮮人がいて、そういういろんな朝鮮人の集まりとして考えなければならない。おそらく南と北についても思考様式や文化は相当に異質になっている。そういうことをふまえて、これからの展望を考えていかなくてはいけないと思うんですけどね。

鄭●●だから、ワンコリアを志向するには、ワンコリアのワンが多様性を含んだワンであればいいですけど。どちらかと言えば純粋志向というか、未だに韓国の知識人の中には、解放直後に韓国を純化できなかった悔いみたいなものが、かなり残っているんですよ。

文●●韓国が被害者意識から抜け切れない一つの要因が、過剰なナショナリズムにある、と。しかし、ナショナリズムというのは、農村的な共同体に根差す生活意識、生活関係を前提にしている面がある。一体感をとにかく強調する。ですが、少なくとも在日については、その前提が崩れてきている。日本の高度成長・都市化・工業化という中で、崩れざるを得なかった。やはり、そういう社会状況は個人が非常に多様なものを主張し、いろんな意見をつきあわせる場が成立する一つの条件になっている。ナショナリズム云々の従来のあり方ではくくれない状況は、在日には結構出てきていると思うんですね。

鄭●●ただ、在日にはサブナショナリズム ― ナショナリズムというのは基本的に国家を基準にした言い方なのでこう呼ぶわけですが ― が残っている。そのサブナショナリズムが本国のナショナリズムと切れていないという問題はあると思うんですね。それに韓国のナショナリズムは非常に拡張主義的志向があって、海外僑胞までも含めて偉大なる民族をつくろうという夢もあるわけですから。そういうものに我々が包拝されない心構えが必要だと思うんですが、それはまだ弱いようには思いますけどね。

 

 

経済システムが 世界を包摂する中で。

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竹田●僕はアジアにおいて市民化の前提となる近代化がどういう方向を取り得るのかが、とても気になるんです。つまり、西洋型の近代化は、非常にエゴイスティックな戦争や侵略を原理とする近代国家原理の方に進んだ。そのために、一昔前は、アジアが西洋と同じ近代化の過程を経れば当然同じプロセスを追うんじゃないかという恐れがあった。しかし今の時点でいうと、先進国の方でも侵略的な国家原理は成立しがたくなっている。僕は今、アジア諸国が、先進ヨーロッパ諸国が通った侵略的、自己拡張的なプロセスではない道を通って、市民社会化する展望は、全くないとは言えないと思います。そこでアジアというか、途上国における近代化の新しいモデルが必要な時期だと考えるんです。

鄭●●アジアにいろんな国があって、異同の異の部分にだけ関心を持つ議論は、今まで非常に多かったんですが、最近はそれとは少し違う、同一性の部分に焦点を当てたものの言い方が出てきていると思います。例えば儒教文化圏という考え方はアジアの国々が経験している共通の課題を重視したものの言い方だし、東アジアのパラレリズムのようなものに視点を当てている本などもあります。それをアジアの市民化と呼んでいいかは別にして、そういう議論は出てきていると思うんですが……。僕は今はアジアの多様性に対してきちんと理論立てて話せる下地が未熟なもので、それ以上のことはよくわからないですね。

竹田●川村さんはどうですか。先程シンガポールの話が出ましたが、ある程度の階層性ができるのは仕方がないと僕は思います。みんなバラバラにして全く対等にしろというのは理想論であってムリな相談です。ある程度階層性は残るにしても、社会的に流動化していくかどうかが大きな問題になるわけです。川村さんはアジアのいろんなところに出かけてらっしやいますが、そういったことにどんな感触を持っているのか……。

川村●僕は最初、やはり「前近代を媒介として近代を撃つ」という、いわゆる戦後のアジア主義的なモチーフを持っていたんですけどね。ただ、今はそれと違う視点で見ている。例を出すと、この前中国の舟山列島という辺境の、その中でも日本人は来ないと言われる小さな島に行ったんです。ところが東京に帰ってきてある知人にその話をしたら「私はそこは、よく行きますよ」と言った。その人は水産物の買付けをする人で、詳しく聴いてみると「私はその島でワタリガニを買い付ける。年間およそ三億円」と。つまり中国の辺境の、そのまたさらに離れ小島に、三億という日本円が出て行ってる。昔だったら日本の資本が入って来るのは「けしからん」という論点になるんだけども、今は基本的に三億円もの日本資本が入り、その金によって本土よりむしろ離れ小島の方が生活水準的には豊かになっているという事実は否定しようがない。よその国の人が来て、いいとか悪いとか言うようなレベルの問題じゃないわけですよ。私の家よりもっと立派に近代化された家が漁民の家だ、と(笑)。そういう生活は党幹部だけが許される夢物語ではない、頑張ればみんなこう成り得るんだという意味でのモデルケースであるわけです。そういうものを目の当たりにした時、前近代云々のモチーフは、ことごとく崩れてしまった。それを積極的に認めたいあるいは認めようという気持ちではないんですが、やはり消極的な意味では、そこに向かって進んで行くんだという……。それは「市民」という言葉で言うべきものか、僕にはよくわからない。しかし、生活レベルの向上ということに関しては、アジアではほとんど全世界的に皆やっている。中国も完全にそれに向かって走ってます。日本・韓国・台湾は、ある程度までいった。

鄭●●そうですね。

川村●では、それから取りこぼされる部分を、我々はどうするかという議論も1980年代には ― もちろん、今も ― ありますが、僕はこの問題は、問題としては本筋でないと思っています。なぜなら、それは福祉や何らかの形で救いあげることができるからです。やはり問題はそれではなくて、構造的に生活レベル向上が図れないとか、そういう新しい意味での植民地主義が蔓延している部分をどうするか。これが本質的な問題としてあると思うんです。

竹田●例えばどういうところですか。

川村●まずアフリカですね。アフリカは、帝国主義が搾取しているからというレベルと違った、つまり世界経済から完全に外れたところに行ってしまっている。北朝鮮もある意味でそうでしょう。では、今北朝鮮に対して我々はどうするか……これはどうすることもできない。完全に世界経済の輪からズレているところは、今のところどうにも解決のしようがないわけです。もう、開けてくるのを待つしかないんじゃないか、と。結局、国際的な問題は、個人の生活の向上という方向に動いているのであって、この世界的システム ―資本主義のシステムと言っていいかもしれないけれど― に、否応なしに乗らざるを得ないわけです。そのため、今まで我々が持っていた民族的階層や人種的系列の問題は、ことごとく違ったものになっていかざるを得ない。だから今、無理をして「市民主義とは」とか「アジアの市民主義として」という包括する概念、理念をつくる必要があるのかどうか。この理念の問題は自分にとっての一番の課題ではないし、これはなるようにしかならないんだと思っている部分もあります。それからまだまだ理念を議論する段階に到達していないということもありますから、理念以前のいろんな小さな課題を具体的な課題としてやるべきじゃないかということを、僕は今考えているわけです。

文●●う−ん。ただ、僕は生活レベルの向上だけでは、割り切れないところがありまして。最初の問題に戻るようですけれど、例えばODA(政府開発援助)がらみのいろんな開発に反対して抵抗が起こりますよね。この抵抗には二種類あって、一つは都市化を前提とした都市的な市民層からの抵抗がある。しかし一方で、例えばダムをつくることで村が潰されるといった、いわば現代版のエンクロージュア(囲い込み)のようなことがあらゆるところでおきていて、それへの抵抗があるわけですね。

竹田●なるほどね。

文●●要するに「それはもう仕方がないんだ、いい生活をするんだから」と、こちら側の基準で解決していくという形で問題を切捨てることができるか否か。
竹田●個々の問題として言えば、そこにいる住民達の意志がどれほど守られるか…。いわゆる開発をむりやり押し付けるのはやはりおかしいと感じる。そういう住民の意志は市民主義が成熟するに従って、例えばスリーマイルの原発反対みたいに、尊重され得るわけですね。これが市民化の一つの指標であり、大きな課題でもある。

文●●ええ。

竹田●だけど、一方で都市化や生活の向上といったものを後退させた方がいいんだ、という考え方も、世界の大きな流れから言えば成立しない。

文●●それはそうです。

竹田●ですから、投資や開発をおこなう先進国の人間としては、自国の市民主義が、そういう問題をどのようにきちんと制度化しているかに注意を配っていく必要があると思いますね。

 

 

 

「積極的市民」と「消極的市民」。

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竹田●川村さんのおっしゃった「冷戦構造が終わって社会の今までの問題点は失効した。なるようにしかならないのではないか」ということと基本的には同じ考えなんですが、ただその時に「なるようにしかならない」部分を少しでも何らかの形で積極的に転化できないとやはりまずいと思うんですね。それができなければ市民化が制度として機能しなくなって、文さんが言われた「下からいろんな意見がある時にはそれをきちんと反映させよう」という運動自体に元気がなくなってしまう。だから僕が言うのは、大げさな意味での社会理念ではなく「こういう社会がいい社会なんだ」「こういう風に進めば、そこに生きている人間が希望が持てる」という標識をはっきりつかみ出す必要があると思うわけです。これがないと先進資本主義国が市民化していくという方向が、いいことなのか悪いことなのか確信が持てない。多くの人間がなるようにしかならないと感じるなら、市民化を推し進める運動それ自体方向性を失う。具体的に現れる矛盾はいくらでもあるけれど、どうすればいいか根本的には判らないという無力感が生じますね。僕はそこはとても大事な点で、社会学でも思想でもいいから、こういう方向に希望があるんだというモデルをはっきり示そうとする努力がどうしても必要だと思うんです。

川村●そうですね。まあ、なるようにしかならないって言い方はちょっとまずかったかなと思っているんですけれど(笑)。しかし、例えばカンボジアの問題がありますよね。あの時、いろんな形で問題が語られて、僕もカンボジアのことをいろいろ考えたんですよ。しかし、その時僕が考えたことは全部裏切られている。あの時は様々な論議がでて、そして選挙になった。しかしまた、ポル・ポト派が出てきて一緒に政府をやる、と。すると一体あの対立は何だったのか、我々が考えていた議論とは何だったのか……考えていたことほとんどが裏切られてしまった。となると、やはりこちらが考えていたことが違っていたと思わざるを得ない。つまり具体的、現実的な問題の課題として出てきたものを考えるのはいいけれど、こちらが「カンボジアはこうあるべきだ」とか「民族は独立すべきである」とか振りかざした理念というものは、ほとんど全部といっていいくらい裏切られている。

竹田●いや、それはすごくわかります。ですから「なるようにしかならない」という部分はきちんと認めなくてはいけない。だけど一方で、歴史の大きなスパンとしてはこういう方向に希望がある、という道筋はつかめないとやはり困るわけですね。

鄭●●そうですね。

竹田●僕は、カンボジア問題やパレスチナ問題をどうするかということに関しては、これはまさしく「なるようにしかならない」という感じがあって「大変な問題だから行ってなんとかしよう」ということにはあまり意味を感じられない。もちろん「行ってなんとかしよう」と思う人間がダメだということではないんですが。ただ、今、僕らが何かを考える時は、まず先進国の高度消費社会の中で生きていて、いわば繁栄を享受している人間として思考する構造になっているわけですよね。自分達の存在は、どこか異様に得をしていて、どこか後ろめたいというような(笑)。日本人あるいは日本社会で生きている人間は一種の負い目から考えざるを得ない面があるわけです。だからつい、南にカンボジア問題があるから駆けつけて、といった……宮沢賢治になっちゃう(笑)。それはもちろん悪い心ではないけれど、本当に本質的な課題とは言えないわけです。だから僕は「なるようにしかならない」部分は、それはそれでいいと思う。しかし、それと別の問題として日本社会の市民化とか市民主義を自分達がどう准し進めていくかという問題は日本人にとっても、とても重要な課題ですね。これはきちんと考なければならないし、日本社会にいる人間は誰でも手をつけられる問題です。そしてそういう先進国の「こうしていくと希望が持てる」という運動がカンボジアや南北朝鮮のような「なるようにしかならない」問題ときちんと繋がる、あるいは繋がるはずだという展望を示すことが大事だと思うんです。

川村●もちろん「今、カンボジアのことを考えても仕方ないから、考えない」とか「南北のことはわからないから、知らん顔しちゃえ」ということでなく、それは課題として残されている。それが自分の課題と繋がるか否かは、わからないけれども。繋がる方がいいのはわかるんです。ただ、自分の問題と世界の問題を繋げる道筋みたいなものが、なかなか見つからない。自分の問題と世界の問題に断層があって、仕方ないから自分の問題だけ、というような形でやる。そうすると、今、竹田さんがおっしゃったように「自分はこんないい想いしていていいんだろうか、自分だけが享受していいんだろうか」というやましさみたいなものが、たぶん、どこかで出てくると思うんですね。だから、やましさを振り捨てるために、自分の問題と離れた世界の問題を取り上げて今度は極端な行動に出てしまう。それこそ宮沢賢治ですね、南に病人あれば駆けつけて、北に訴訟やケンカがあれば駆けつけて……(笑)。それは違うんじゃないかと思うわけです。

 

 

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