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ΥξΦΨ 鄭●●まあ「なるようになる」というのはどういうことかをもう少し考えて見ると、どんな地域でも世界システムに組み込まれる。アジアが経済システムに組み込まれるといった事態はおそらく進展していくと思うんです。そうした場合、組み込まれれば組み込まれるほど文化の複合化は起こる。ただ、一方ではやはり反日などのナショナルアイデンティティも何らかの形で出てくると思うんです。ですから、包摂されればされるほど、ナショナリズムがつよく大きな問題になるのでは、という風に思うんです。 文●●具体的に言うと、例えばODA。第三世界のA国にODAをするとして、その開発計画は建前としてはA国政府が決めるわけです。A国政府が決めるけれど、裏には先進国側の企業がいて、その企業を誘致し開発していくわけですね。それがひどい開発だったりする。公害をたれ流し、村を潰して……けれども原理的にはA国政府を我々は批判できない。但し、先進国側のODAのあり方をもっと考えろとか、もっと透明にしろとか、そういう運動はできる。これが我々の方の市民社会化になると思うんです。そういう意味では、我々がもっと開かれた市民社会をつくっていくことと、むこうがどうなるかということは、かなり具体的なところで関係しているとは思うんです。 竹田●それはそのとおりですね。その場合は何が桎梏になっているかというと、やはりどこかに積っている「資本主義はやはりダメだ、金をまわすという考え方事態が矛盾を大きくしていくんだ」という考え方だと思うんです。思い切って言うと、僕は資本主義というか自由市場経済をもうはっきりそれとして認めた方がいいと思います。それ以外のプランは今はどこにもない。市民化と民主化によって近代国家原理と結び付いた拡張型の資本主義をどれだけ相対化 できるかというのが唯一のプランだということです。先進国のODAはお金を再分配する、つまりどんどんプレゼントするぐらいの感じでいかないと、世界全体の矛盾はますます大きくなる。文さんがおっしゃったように、ある程度援助したら必ず一部のものが利得を得る。それは困ったことだけど、全部きれいにするなんて、それはできない。そこでできることは、やる方の側の社会が民主化することだけなんですよ。だから、その民主化の過程で、僕らが今まで持っていた考え方を、一度きちんと精算した方がいいと僕は考えるんです。そうすることで市民化の問題は前へ進んでいくし、広範な人がそこに関わることに意味を持てる。今のままだと「これはいくらやってもダメだ」というのがだんだん、絶望感として出てきてしまう。それが理論として「資本主義だからダメだ」ということになると、非常にまずい。資本主義も、初期の近代資本主義のままでない。「富の再分配」というのは社会主義の考え方の中心なんですが、今の資本主義は、その「富の再分配」をしないと資本主義それ自体が成り立たない状況にあるし、どんな先進国も自国のレベルではそうしているわけです。 鄭●●それはそのとおりですね。 竹田●もちろん、この問題は「反近代の考え方がダメだ」「反資本主義はダメだ」と一方的に言うだけではだめで、きちんと議論しなければならない。お互いに理をつくして、ちゃんと問題と条件を確かめていく、そういう形で進む以外にないわけです。だから今は「なるようにしかならない」部分と、ある程度理論的な部分の問題も、たくさん残っていると思います。 川村●要するに、市民化の最低限目指すべき理想が生活水準の向上である。そしてさらに、希望の持てる方向とは何かを自分達の課題として意識していかなければならないということですね。 |
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ΥξΦΨ 文●●いずれにせよ、今のアジアの生産力を考えると、アジアは国を超えて経済生活を組織しなければならないのは必然ですね。ただ、それをどういうイニシアチブで進めるかが問題になる。できるだけ下からの意見を反映するような方法で進むかどうか。もちろん、これまでの社会主義的運動が主張したように、下からの動きが完全にイニシアチブを握ることは、たぶん不可能でしょう。少なくとも当面は考えられない。資本のイニシアチブを全く度外視することは今やできない。ですから資本のイニシアチブを認めながら、下からの問題解決の志向性をどれだけ組み込むか、ということですね。 鄭●●アメリカが双子のジャッジ赤字を減らそうとして、アジアの市場解放を図る政策を打ち出しているわけですが、そのためにアジア間の貿易が増え、それが逆に今度はアメリカに脅威を与えるという形の市民化は存在していると思うんですけどね。 文●●僕は一つの目安として、地方分権ということを考えているんですけど。国家に集約される権限をとにかく地方にわけていく。要するに国というものを一方では大きく超えないといけないし、もう一方では小さく超えないといけない。例えばECはそういう二つの方向で国家というものを相対化しようとしているわけですね。 ――●ただ地方分権を進めながら、この間の茨城の知事みたいなことが起こらないようにしないといけませんね。 竹田●それはチェック機構の問題だと思います。もちろん、分権にすればそこでひどい腐敗が起こるのは、昔の日本にも中国にも例はありますが、しかしそれは民主的なチェック機構をきちんと組み立てていけばある程度までは解消できる問題だと思うんですね。基本的に近代型の中央集権国家というものは、国家権力をどんどん強くして富国強兵策をしなければならないということから出てきたわけです。そういう今までの国家原理が相対化されている以上、原則的には分権の中での市民化をどうやっていくかという考え方の方がいいんじゃないかという気がします。 文●●民主主義を育てるのは、原則的には直接民主主義であって、自分の身近なものを自分でつくっていくという実感を媒介にして大きなものをつくっていうということがこれから必要だと思うんですよね。それを考えると、やはり地方にいろんな権限を移していくことが人々の政治参加の意識を育てていくだろう、と。 ――●ある人が言ってたんですが「前の総選挙の結果を見ると、腐敗した政治家がミソギとして当選している。だから中央の意識をどう変革するかという問題と一緒に考えていかないと、そのまま絡め取られてしまう恐れもあるんじゃないか」と。それにいてはどう思われますか。 川村●極端に言えばどちらが先かというと、やはり地方自治が先ですよね。それをやらないことには何も変わらない。 竹田●基本としては、そうでなければ民意の反映は難しくなるでしょう。 |
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ΥξΦΨ ――●どうも長い時間ありがとうございました。様々な問題に言及していただいて、非常に有意義な時間でした。 竹田●どう言えばいいか……それぞれが違う脈絡から出発し、結論はそれほど違わないところまできたという感じですね(笑)。 文●●僕は最初、多少、気後れがして…。場違いなところに来ちゃったな、と(笑)。 川村●まあ、アジア市民の条件は随分出てきている半面、課題もまだまだ山積みで……だからといって、悲観ばかりしていても仕方がない。 ――●一つ一つの要素がプラスとマイナスの両面を持っているんですよね。そして「マイナス面もきちんと認識しながら、皆が関心を持ってプラスをより確実にしていこう」という発想をしていかないと、なかなか政治意識や参加意識は出てこない。ですから私達のワンコリアフェスティバルは、ナショナリズムによる統一ではなく、アジアや世界への参加意識の一つの通路なんです。 文●●ワンコリアフェスティバルの考え方を僕なりに代弁させていただくと、冷戦後の状況には二つの逆のカが働いているような気がするんです。一つは、求心点が在日の中でなくなってきているということ。求心点を失ってバラバラになって、拡散していく側面がある。帰化や同化に拍車がかかっているという人もいるし。もう一方ではこれまで二つに別れて対峙していたものが、相互に乗り入れる状況が出てきた。結局、いろんな人が多様な立場で、一方でバラバラになりながらも、一方で垣根を越えて接点を模索しはじめている、と。そういう時に、ワンコリアフェスティバルや、皆で集まって何かをやるということは、それなりに意義があるんじゃないかと思う。その中で、新しい求心点をつくっていくといいんじゃないか、という気はするんですけどね。 竹田●個々の在日にはまず差別からくる負い目やひけ目を克服していかなくてはいけないという課題があります。その時に、どうしても民族というところにアイデンティティの拠り所を求めていたわけですね。今はこの民族アイデンティティのリアリティが崩壊している時で、非常に心細い想いを皆が持っている風に思います。僕は結論として、今「市民社会」の理念がほとんど唯一可能性のある道筋じゃないか、という考えを持っているので、そういう以前の拠り所が消滅した今、「市民社会」という可能性を在日の中で押し出すのはどうだろうかと考えたんです。これは、以前、文さんに申し上げましたね。 文●●ええ。 竹田●文さんはその時「非常に刺激になる言葉ですが、それはシチューにしてしまうことですね。自分は今すぐシチューになるというのは抵抗があって、いわばサラダボウルでありながら、お互いに認めあっていく道筋がないとまずいと思います」という風におっしゃられて、それが非常に印象に残っているんです。確かにいきなりシチューだとプロセスとしては進みすぎるかな、という気持ちもある。ただずっと進んでいく方向としては、少しずつシチューへという以外には考えられない気がします。ともあれ在日のアイデンティティの問題を、今日ずっと話してきた問題とどういう風に繋げていくか、きちんと考えなきやいけないなと思っています。 文●●竹田さんのおっしゃる「流動化を通じて異質な者同士が融けあっていく」ということはわかるんです。しかし今はまだ融けあいという状況ではないような気がする、サラダボウルぐらいでいかないとだめだな、と。僕は流動化というよりむしろ地域に根付く、定住とか定着化を通じて他の日本人達と共存する方向を考えているんです。ただ単に差別をするなとか、異質性を認めろとか声高に叫ぶだけではなくて、同じ地域の課題を一緒に解決する中で、共存していく。ですから最近、僕の頭の中では、在日の問題は定着化、根付くという言葉に集約されていて、そこに竹田さんの「流動化」という視点が入ってさて非常に刺激になったわけです。僕の言う共存の形も、結果的に融けあいの一歩ではあるとも言えるわけだから、「流動化」という条件も入れて市民化についての考え方をどう組み直すか、今考えているところなんですね。 竹田●僕が思っている市民というのは、いわばミニマムのルールなんですね。生活上どうしても困るトラブルがあった時だけみんなでルールをつくって処理する。その時はそこに参加している人の民意がきちんと得られるような手続きが必要である。これだけでいいと思っているんです。そういう考え方でいかないと、すぐ共同体が固まっていろんな約束ごとをつくる、統一見解をつくる、権力をつくる……。そういう動き方は異質なものを共存させる上ではマイナスになると考えているわけです。 文●●僕は竹田さんとはそこがちょっと違うかもしれない。僕の個人的な経験に引き寄せて言うと、大抵、人は子育てを中心とした地域の関わりで、地域社会の重要性に想いが至るんですね。子育てや教育をめぐって多様で切実な交流がある。特に子供の教育については、在日でも誰もがすごく考えるわけです。保育所とか医療とか、イジメをどうするか、子供の通学路の防犯をどうするか、結局そういうことで近隣との関わりが生じる。つまりミニマムをもう少し大きな範囲で捉えざるを得ない。そういうところで、自分が関わって、そこを住民や市民としてつくっているという意識、それが市民感覚を育んで大きな政治の関わり方にもなっていくだろうと思うんですけどね。 川村●ただ地方自治の参政権などの運動としての形になると、僕は日本人だから言うわけじゃないけれど、やはり日本人からは反発がありますね。その反発がどういう形で出るか、それはやはり日本人をどれだけきちんと説得できるかにかかっている。それは歴史とか差別のことではなく、将来にむかって日本の社会を一緒にどう作っていくかという積極的な姿勢があり、それが納得されるかどうかですね。俺達は税金を払っているのに選挙権がない、だから差別解消のために選挙権を与えよというのは、僕はあまり説得力がないと思う。選挙権を持つことによって自分達が日本の社会にどんな風に参加し、それを積極的に変えていくことができるか。それをまずはっきりさせなければ多数者は少数者の権利をなかなか認めようとはしないと思いますね。 鄭●●確かにそれは日本人の問題であると同時に、その時在日がどう対処できるかという問題です。だから本当にサラダボウルというしかないでしょう。シチューであることがもっとも望ましい状態だと仮定しても、そこに行き着くにはまだまだ、百年単位の時間がかかる。我々のアイデンティティといっても、歴史や日本に生まれたことや、それから単純に家庭環境に根差す部分とか、非常に雑多なものが混ざっているわけです。そういうものを抱えながら、お互いに共感、共鳴していきつつ、憎しみや誤解は課題として出てくる度に一つずつ解決していく。今はそれしかないでしょう。 ――●そうですね。だから私達ワンコリアフェスティバルも、百年千年のスパンで世界を眺めたいと思っているわけです。本当はワンワールドが望ましい、だけど急には出来ないからその前にワンアジア、さらにその手前のワンコリアからはじめよう、そう考えているんです。 川村●そういう意味では文さんのおっしゃる地域社会での市民化と全くつながりますね。 鄭●●だから先程も言ったけれど、ワンコリアのワンは、多様性を含んだワンであってほしいですね。それを目指してこれからも頑張ってください。 ――●ありがとうございます。アジアにおける市民が普遍的に権利と自由を手にする日を目指して、それがワンワールドに広がる展望だと信じて頑張っていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。 (1993/ 座談会場・福寿) |
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