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ΥξΦΨ 竹田●今、川村さんが適切に言われたわけですが、僕はまずそういう意味での社会の市民化ということを一応「社会がよい方向に進んでいるか否か」の標識だと考えています。ただ、歴史的に言うと市民化する条件というのは、日本や韓国のような均質の、いわば単一民族幻想を持っている国の方が、一国の市民社会化というレベルでは整っている面もあると思うんです。例えば東南アジアのように、民族も言語も宗教も入り交じっているところは、はたしてどういう方向を取りうるかということが、非常に気になる問題です。そういう混在した社会での市民社会化の例としてはアメリカがあります。アメリカは近代市民主義国家の理念を一応表看板にしてできた国ですね。民族や宗教が違っても市民権を与えられたら法のもとに対等である、と。ところが、表向きはそうでも、内にはエスニックな対立を多分に抱えている。このエスニックな対立が徐々に解けていく方向に進んでいるとは見えないわけです。つまり法的なルールとしては対等が保障されているけれど、実質的には差別や排除や階層化が固定しているんですね。だから、川村さんの言う、どんな人間でも自由に稼げて、欲しいものが買えて生活できるといった「最低限の"マル"である」という消極的な市民主義もわかるけれど、市民主義が一人一人の人間にとって「この社会はこういうよい方向に向かっているから希望が持てる」と思えるような社会像の問題として積極的な面も持たないとやはりうまくないと思うんです。もともとマルクスが『ユダヤ人間題によせて』で言っているように、市民社会という原理は民族や国家よりも基礎的なもので、かつ民族や国家という共同体を超えうるものですね。一挙にというわけにはいかないけれど、今ある国家の市民社会化が進むほどに、民族や近代国家の原理はそれに応じて相対化されていくというのが原則ですね。但し、市民社会の内側で差別やエスニックグループ間の内圧が解けていかない限り、市民主義 ―積極的な意味での市民主義― には、展望がない。それを内側から解決できなければ、その市民主義は先の見えない行き止まりの市民主義になってしまう。だから、僕は鄭さんの『日韓のバラレリズム』(三交社・刊)を読んで、単に韓国のナショナリズム批判でなく「共同体というのは基本的に積極的市民主義の方向へ向かわねばならない」という暗黙の視点がおもしろいと思った。これは今までの単なる日韓問題の批判じゃないぞ、と。それで、韓国やアジアが発展していく過程で出てくる課題とは何なのか、そのあたりを皆さんにお聴きしたいと思っていたわけです。 文●●あの、印象が逆ですね。僕も『日韓のバラレリズム』を拝読しましたが、逆のことを思いましたね。 竹田●逆というのは? 文●●例えばアメリカというのは非常に不思議な国で、多様なものが混在しているから歪んでしまった部分と、その逆に多様であるからこそすごく健全な部分を持っていると思うんです。つまり、混在が生み出す様々な軋轢や対立の中で、異質な人間同士が共存するための問題を考える訓練を受けている。それが、市民社会の要素として重要だと思うんですよね。ですから等質性が市民社会を育てるとおっしゃいましたが、逆に等質性、端的に言えばナショナリズムが市民社会の足を引っ張っているところがすごくあると僕は思うわけです。 竹田●ナショナリズムの強い国民性が、多様性を受け入れることができなくて市民社会の発展を阻むという面ですね。 文●●そうです。等質性が非常に強いために、ナショナリズムに基づく統一あるいは反日という方向ですぐ人がまとまってしまう。そういうあり方が市民主義的な要素を培っていく上で、むしろ足かせになっている。僕が『日韓のバラレリズム』を読んだ時はそういう印象を受けました。かといってナショナリズムは絶対ダメだということではないんですが。ただ日本や韓国における市民主義は、アメリカのように多様なもの同士が揉み合い人間形成されてくる社会よりはかえって成立しにくいという面もあるのではないでしょうか。 鄭●●アメリカのように非常に民族的・文化的・言語的に多様な社会と、韓国や日本のように均質的な社会では、それぞれの課題はかなり違うと思いますね。非常に多様性を持った国の課題がいろんな意味での同質化だとしたら、日本や韓国はある意味でその理想を既に達成している社会であると言えるでしょう。そして我々の場合は等質であるが故に、外との多彩なネットワークや外を理解するためのいろんなパイプが皆無に等しい。だから外から何らかの問題をつきつけられた時に非常に激しい動揺を経験する。そういう意味では、我々の社会が持っている課題は、アメリカ化というか多様化だと単純に言えると思いますね。 竹田●それはそうですね。均質であるから市民化が進むというのは内側に向いた側面であって、逆に言えば、外から様々な民族が入ってきた時に排除的になる側面も当然あります。 川村●今まで日本と韓国が語られてきた時、世界的に見ると実は日韓は非常に似ているという事実が一番欠けていた大きな視点だと思います。単一民族幻想に関しては両方とも横綱級の国ですね。だから、日本と韓国でお互いにやりあっていたところで、多民族国家に向けて云々という新しい議論はほとんど出てこない。しかし、それでも日本と韓国がある程度成功しているということは、やはり考えなければいけない。例えばシンガポールはシンガポールなりに成功している。シンガポールは多民族の都市国家で、華人が一番上層、次にインド人、次にマレー人がいるという完全に民族で階層化した国家になってしまっているわけですが、国自体は豊かだから、最低のランクでもかなりの部分で底上げができるし、民主的な制度の中である程度の入れ替えも可能なわけです。そういうシンガポールのような国家もあって、おそらく東南アジアの多民族地域で市民国家を目指すには、シンガポールを目指すという風な形にならざるを得ない。つまり日本や韓国みたいにはなれない。じゃあ、一体北朝鮮はどういう形を目指すか、あるいはロシアは。結局、課題というのは個々において違う、としか言えないわけですね。 竹田●全くそのとおりだと思います。 |
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ΥξΦΨ 川村●たまたま日本と韓国の課題がわりと似ていたために、我々は日韓関係においては自らを顧みる鑑を持たなかったわけです。これはよくないことです。結局我々は、この課題とこの課題とこの課題があったんだという、まずそこから始めなければいけなかったのに、それが全く違ってしまった。近代と反近代の問題だとか、市民と死民だとか、問題が違った問題として出てきてしまった。そういう基本の部分のズレを、例えば鄭さんの『日韓のバラレリズム』がはっきり示したということですね。 竹田●『日韓のバラレリズム』は、日本で出版したから言い得た声で、あれは韓国ではまだ全然言えないことだろう、という気はするんです。そういう意味では韓国はまだまだ閉鎖状態にあって、日本の方が速く内省する力に目覚めた。まあ、これは日本が経済大国になって、絶えず国際関係の圧力を受けて開かざるを得なくなったからという側面を持つからですが。ですから、今度は韓国のなかにそういう条件が生まれる」か、あるいは生まれつつあるのかということが問題になりますね。 川村●そうですね。 鄭●●だから、さしあたり韓国は、もう少し多様な人とつきあわなくてはダメだと思いますね。今までは基本的に日本人とアメリカ人としか交際がなくて、近隣諸国には全く目が向いていなかった。その辺りでいろんな新しい経験を積めば日本のことを相対化して観察することも可能になるかな、と思うんですけどね。 文●●そのとおりですね、そうなってほしいものです。 鄭●●ただナショナリズムを抑制する作業に関しては、日韓の間に一つの大きな条件の違いがあると思うんです。日本の場合は戦争で負けた、ナショナリズムが肥大して亡びたという経験を持っていて、これはやはり大きいことだと思います。韓国の場合はそういうショック療法のようなものは、あまり経験できないと思うので、じわじわと小さい経験を積み重ねて韓国人の中で自覚が出てこないとダメだな、と思っているんですけどね。これは時間がかかる感じがするんですけど、どうでしょうか。 文●●僕は「冷戦後」という状況に期待をかけているんですよ。在日も含めてコリアンは昔からいろんなものと対峙してきたわけです。そういう他者と対峙、対立している状況では、どうしてもナショナリズム的なものを抱えていなくてはいけなくて、そこでは自分を他者との関わりで顧みる作業はなかなかできない。だから「冷戦後」という世界のあらゆるところで対峙が緩みつつある状況の中で「世界との関わりで自分達自身を浮き彫りにしていこう」という動きは出てきていると思うんです。ただ、それがちょっと行き過ぎて元も子もない議論になっているのも少しあるような気もするんですけれど。『醜い韓国人』の議論だとか。しかし、やはりここ二、三年の状況を見るとそういう機運は出てきているんじゃないですか。 鄭●●ただ『醜い韓国人』の議論の類は、韓国人の自制的な動きというよりは、むしろ日本人の本音が出てきたものだと思うんですよね。 文●●ええ、僕もそういう風に思ってはいるんですけどね。 |
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ΥξΦΨ 鄭●●ただ、話し言葉と書き言葉の二つの世界で語っていることが違うのは昔からで。韓国では1980年代初頭に従来の反日論とは異なる「克日論」という新しい親日論的な議論が出てきていたんです。つまり日本=美徳論も話し言葉の世界ではその頃からあったわけです。しかし書き言葉の世界では日本=悪徳論が圧倒的に主流であり、90年代に入るまで、親日論が活字として一般に届くことはほとんどなかった。これは日本にも同じようなことが言えるわけです。 竹田●なるほど。 鄭●●ですから、川村さんが以前「とまどい」という言葉で表現していましたが、韓国では最初「絶対に悪い日本」という反日論があり、それに対して「とまどいのある」反日論が「克日論」だと思うんです。この旧来の反日論と新しい克日論はほとんど交差しないで併存するでしょう。日本の場合は逆に、昔は「とまどい」を持っていた、つまり容易にこうだ、と言えない韓国論があったわけですが、この頃は「とまどい」のない韓国論になってきているんですね。 川村●そうですね。だから日本側から言えば「もうハンディなしでしゃべるぞ」的なところですね。悪く言えば昔の差別意識みたいなものが出てきたという風に言えるかもしれないけれど、そう言ってしまえば身も蓋もないわけで。ハンディなしで話をすることが悪いとは思わないし、そうして話をしていくと、いろんなものが付け加わるのが当然のことである。結局、それぞれの言い分を突き合わせることによって落ち着いていくと思うんです。 鄭●●ええ。 川村●だから日本で「とまどい」のない韓国論が出ているから、それが危険な兆候であると韓国が攻撃することは少し違うなと思うんです。日本自体が日本の中で「とまどい」のない韓国論と、それとは違う言い分をちゃんとつきあわせて自浄する能力があるかないかを指摘していかなくてはいけない。 竹田●そういう自浄能力は、日本にはあると思いますか? 川村●あると思います。『醜い韓国人』は、私も読みましたが、誤りや歪曲が極めて多い。井沢元彦の『恨の法廷』もそうですね。私は日本人として、こうした韓国論は批判してゆかねばと思っています。但し、そうして自浄していけば日本における韓国論のスタンダードが設定されるということではないと思います。まあ、どこにも極端なことを言う人はいるわけです。ただ、今まで日本は韓国に対する否定的な意見を口にするのは遠慮してたんですね。今はそういう遠慮がなくなってきた、と。ただ、遠慮がなくなったから悪いのかいいのかは、それもまた一義的には言えないんですけどね。 鄭●●そうですね。まあ、自浄能力というか、日本の議論においてはかなり韓国人も参加できますから。韓国側の人間が批判したかったら出来る。当面は留学生だけでもたくさんいるわけで、批判できる状況はいろいろ出来ていますよね。その点ではむしろ韓国の方が問題なんです。韓国では日本の本がたくさん翻訳されているし、日本の影響はものすごく受けている。ただ、それらに関する議論のなかに日本人が参加して、というのは今はまだ難しいかもしれませんね。 竹田●ともあれ、今まで書き言葉のレベルでは、罪の意識で何も言えなかった日本人が、素直に批判的なことも言い出せるようになったのは、一歩前進だとは思います。まあ、「醜い在日論」というのは、日本人はまだ書いていないようですけどね(笑)。 鄭●●醜い在日論って…(笑)。 川村●それは、いろいろ言いたいこともあるんでしょうけど、そんなことは醜く争えませんよ(笑)。隣りの家とのトラブルは避けようというのが世間の知恵ですから(笑)。 |
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ΥξΦΨ 文●●日韓関係は別にして、韓国自体はどうですか。例えば鄭さんが指摘しているように、韓国は「日本が在日を差別している」というけれども、韓国内の差別の方がもっとひどいわけですよね。黒人や中国人に対する差別意識は相当に根強い。それから今は東南アジアのほうに進出しているわけですが、エコノミック・アニマルと言われた日本がアジアに対して行ったこと以上にひどいことをやっているようなところもある。そういうことを韓国人自身が見直していこうという機運は出ていますか。 鄭●●それはどうでしょうね。韓国は日本に対する謝罪要求の他に、例えば中国と国交を回復すると人民戦争に参加した中共軍問題で中国側に謝罪を期待した感じもありましたし、それからロシアに対しては韓国機撃墜事件でやはり謝罪みたいなものを期待した。ま、思惑どおりにいかなかった部分もあるんですけれども。しかし、一方では韓国はベトナムとの国交を回復してきている。これはちょうど日本に村する慰安婦問題が出てきている時だったんですが、韓国もベトナム戦争の時は三〇万人もの兵隊を送って、一万数千人ぐらいのベトナムと韓国の混血児をつくっちゃってるわけでして。けれども、そういう問題に対しての言及はほとんどない。韓国人のなかに全く配慮がないというわけではなくて、カソリックなど一部の宗教団体のレベルでは施設をつくったりしていますけど、やはり新聞などの公の部分では全然ない。全般的に、そういう外に期待している美徳を自分自身にも適用しようという動きは出てないと思いますね。 文●●『ホワイトバッジ』という映画がありましたよね。 鄭●●ええ。 文●●あれは、ベトナム戦争をそれなりにリアルに描いていると思うんです。いろんな問題点を含めて。あるいは小説でもベトナム戦争を見直した作品が出てきているし。つまり、映画や小説という大衆的な媒体でそれに言及して、ある程度受け入れられる状況は少なからず出てきている気もするんですけどね。 鄭●●う、ん、私は『ホワイトバッジ』は、おもしろくないなと思って途中で見るのをやめたんですよ(笑)。まあ、個人的見解はともかく、映画館でもそんなに観客動員できてなかったようだし。賞を取ったと報道されて、それなりに宣伝されたわりに、それ程インパクトを与えなかったと思うんですけれど。 川付●あの、僕は自分が文学をやっていて、こんなことを言うのも何ですが、文学で語られたことが一般の人の意識改革をはかるというのは違うと思うんですよ。日本でも従軍慰安婦についての反省は、小説のレベルなら戦後の時代からいくらでも書かれているんです。日本の国家が強制的に行った、軍が関与したということは既にはっきり表現されている。ただ、それがちゃんとした制度としての補償には全く結び付いていってない。だから、問題が出てきた時に「制度的に何を補償したか」と問われると日本人はお手上げなんですよ。ですから、韓国でも実際に聞き取りに出かけて補償制度を整備するとか、そういう形で出てこないと…。映画や文学のレベルで出てきたから反省の機運が高まっているんだ、というのは違うと思いますね。 鄭●●まあ、韓国の不徳に関しては、内部からは出にくいですね。とくに、韓国人自身が自らの民族差別に思い至らないのは、日本における在日コリアンに相当するマイノリティがいないことが問題なんだと思います。そういう「NO」と言う集団がいれば、いろいろ反省する人間もある程度は出るに違いない。韓国の場合、残念ながらそういう民族集団が声を出すには少なすぎる、少なすぎたというのが致命的でしょう。 |
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