1987年 賛同のメッセージ
(順不同) |
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民族教育の先駆者、故崔仁俊、文英順の長女として大阪に生まれる。幼い頃より韓国舞踊に親しみ、本国梨花女子大学教育学部留学中に重要無形文化財(人間国宝)金千興先生、梨花女子大学舞踊科金梅子先生に師事し、舞踊を通じ民族教育にたずさわるきっかけとなる。10年の教職生活中に、「グループ黎明」を結成し、在日韓国人社会にセンセーショナルなデビューを飾る。その間海外でもボランティアとして舞踊活動を続け、広く韓国舞踊の紹介に努めるかたわら、1986年再び梨花女子大学大学院教育学部に留学。韓国では学生として学び、日本にあってはグループ黎明の指導者として今日10周年を迎え、3人の後継者ともいえる指導員を送り出すに至る。
私たちは、韓国舞踊を通じ、人生の黎明を求めるグループです。性別を越え、精神の強さを求め、ただ世の中の流れに身をまかせるのではなく、自らの年き方を主張してゆくささえに韓国舞踊を選んだ集団です。人間の愛がひとつに結集した時のその力の素晴しさを表現するために踊り続けます。"黎明"とは、夜明けを意味する言葉です。
金 成 亀
(ジャズベース)
1938年6月3日兵庫県生れ。京都北条高卒。子供の頃からバイオリン、ギター、ピアノを勉強する。 京都で佐野至洋先生に会い音楽感の基礎を勉強し、生涯の恩師でもある。
ベースを習得してからプロのミュージシャンになり、大阪のフルバンドを多数経験する。以後コンボをいくつか経て現在自己のグループでライブ・ハウス、コンサート等で活躍。ゲイリー・ピーコックが京都に滞在中の1年間師事し、多大な影響を受ける。アン・ジャズ・スクール(京都校)を経て、現在大阪のキャツト・ジャズ・アカデミーの講師でもある。好奇心旺盛で古代史の読書、心理学、現代音楽、邦楽等多趣味。また清水寺の大西良慶氏、民族音楽者小泉文夫氏の思想に傾倒、人間の心の内面に興味を持つ。
祖国解放40周年になる現在、我々在日同胞二世・三世は益々、日本社会の文化に同化、風化され 民族意識の低下、祖国愛の希薄な傾向にあり、結局、日本社会の中に埋没され、見えない人々として、生きていかなければならないことを余儀なくされています。
このような現代社会を生きている我々、在日同胞にとって、いかに民族の自覚を持ち、誇り高く生きていくべきか、今こそ真剣に考えなければいけないのではないでしょうか。
又、在日同胞の文化、芸術家、音楽家の中にも 第一線で活躍しているすぐれた人材がたくさん居る中、そのほとんどが通名で活動している現状です。僕自身、本名で演奏活動をやり初めて3年半、自分自身の小さな心の革命だと思い、朝鮮人として考えも新たに、過ごしてきました。
そのような時、この度開催される8・15民族・未来・創造フェスティバルで、在日同胞のこの音楽家、舞踊家、美術家、演劇集団等によるフェスティバルに参加出来ることは僕にとっても大変意義の深いことであり、又、同胞のこのようなすぐれた芸街家達の活躍に接することによって、二世・三世の同胞達が民族心と勇気を奮い起たせしめる、きっかけになればこんな素晴らしいことはないでしょう。
朝鮮女性史読書会
「朝鮮女性史読書会」(仮称)は発会して約3年半になります。私たちは在日同胞女性を中心に、女性問題及び「在日」の抱える様々な問題について共に考え、学び、語り合う場として会づくりを行なってきました。
活動としては、朝鮮と在日女性の歴史に関する学習会、現在的な問題を中心に語り合うフリートーキングを毎月行なっています。また、2年前の夏、奇しくも「8・15フェスティバル」芽う第一回開催と同時に『朝鮮女性史読書会通信』を創刊し、現在12号までこぎつけました。
活動を行なうにあたっては、既成組織の枠にとらわれず、「在日」として、また女性として抱える問題に関心を待つ人ならば誰でも集えるような、"開かれた場"にすることをモットーにしています。
その点、"ONE KOREA"実現のために南北を問わず同胞の参加を呼び掛けられているフェスティバルの趣旨と共通するものと考えます。
しかしながら、私たちは決して政治に無防備に、宙に浮いた議論をしようとするのではありません。政治的対立や既成組織の枠にとらわれて窒息状態にあった女性問題を少しでも前進させようとする積極的な意味がそこにはあります。「8・15フェスティバル」に集われた皆様もおそらく同様であろうと思います。
そうした意味で、皆様が今後どのような形で力を終結し、独自の視点を確立されてゆくのかに熱い期待と声援を寄せる次第です。
金 守 珍
(新宿梁山泊代表)
昭和52年〜昭和54年 蜷川幸雄に師事
昭和54年〜昭和61年 状況劇場在団
昭和62年 新宿梁山泊結成
また熱い8・15の季節が巡ってきた。昨年、私達の8・15は、秋の「明日、ジェルソミーナと」という作品に向けて走りだそうとしていた。この作品は、作・演出はもとよりスタッフ・キャスト全員が韓国・朝鮮人で固められていた。日本の演劇界でそれぞれ活躍は
していたものの、一同に介したのはこれが初めてのことだった。もちろんこの企画自体が初めてと言える。マダン企画の人達に深く感謝したい。
手さぐりの中で進められる作業の中で、私たちは38度線を越え、ワンコリアであるという自覚の中で、試練を越えた。公演は好評裡に終った。全員、またそれぞれの場に帰っていく。しかし、芝居を共同でつく出すという以上のものが残った。
今年の8・15は「新宿梁山泊」という場所からエールを送るだろう。たとえ「ワン・コリア」の会場にいかないとしても、熟い思いは同じであり、今秋の「カルメン夜想曲」(作・鄭義信、演出・金守珍)が私たちの8・15になるだろうから。
朴 聖 姫
(シャンソン)
東京生まれ。
上智大学でフランス語を専攻し、卒業後、深緑夏代、有馬泉氏等に師事し、シャンソンの世界に入る。日本においては、フランス語でシャンソンを歌える数少ない歌手の一人である。現在、東京及び各地のシャンソニエやコンサートで活躍中である。また、日本に知られていないシャンソンを自分で日本語に訳し、リサイタルで歌い、紹介しながら多くのシャンソンをフランス語と日本語の両方で歌う。1984年秋、ベルギーより帰国、彼女のファースト・アルバムはベルギーのブリュッセルで録音・制作された。
私が歌を歌う時
それは夢があるから
いつかきっと空を飛んで
悲しみなんか流れる雲さ。
私が歌を歌う時
それは涙があるから
ひとには云えない昔しさは
言葉にならないはずだから。
私が歌を歌う時、
それは君がいるから
とおくにいるけどいつの日か
肌の触れあう時がくる。
とおくにいるけどいつの日か
肌の触れあう時がくる。
康 米 那
(インド舞踊)
1948年 大阪生まれ。
高校まで民族教育を受け、早稲田大学で文学専攻。仏教・インド哲学に魅かれ1974年インドに留学。そこでインド舞踊と出会い、以来、インド舞踊の道を歩む。二度にわたるインド・ヨーロッパ長期の旅を終え、思うところあり、現在、舞踊活動停止中。
ここ10年近く、私はインド舞踊を通して世界のいろんな種類の人々と接する機会に恵まれたが、特にインド舞踊のもつ独特な宗教性のためであろうか、思いがけない宗教的摩接に組込まれることが多かった。
インド舞踊は、もともとヒンドゥーの神々を讃える宗教芸術として発展したものなので、古典舞踊のテーマはそのほとんどが、ヒンドゥーの神々か、英雄を対象にしたものである。
それを承知の上で、私は頼まれたと思ったのだが、あるイスラム教団の独立記念式典で式が始まる直前に、突然"上"の方からヒンドゥーの神様を讃える踊りはやめろ、さもなくば、その名前を、"伏して”踊るように、という指示が下されたのである。呆れて口もきけず、そのまま出演を放棄して帰ろうかと思ったが、関係者一同の当惑ぶりを見て、もしかしたら、こんな時にこそ、宗教的に自由な立場にあるにある私が、純粋にインド舞踊を踊ることによって、宗教的偏見でがんじがらめになっているイスラム教徒たちの心をほぐしてやるべきなのかもしれない、と気待をもちかえ、踊ることにしたのである。
汗だくで楽屋に戻ってきた私を、追いかけるようにして、握手を求めにきたのは、なんと、その国の大使自身であった。宗教のちがいを超えて、観客が純粋に感動するのをみて、自らも心打たれたのか、それとも単に主催者として、感謝の意を表す外交辞礼にすぎなかったのか、少くとも彼の眼に嬉しそうな光が発されているのをみて、私は内心これで自分の勤めは果たされた、と思った。
そうかと思うと、時には、伝統的なヒンドゥー教徒、キリスト教徒の人々から、"あなたは踊りによって、神の愛を信通してらっしゃる。私たちがしなければいけないことなのに、ありがとう!"と感謝されることもあった。
神を信じない、という立場の人からは、私が踊りを通して、神様のことをほめすぎる、といって文句言われたことがある。そういう人とは神という言葉を使わずに“道”という言葉で話すと、けっこう話が通じる、ということも学んだ。
というわけで、私はいつのまにか、他界の既存宗教の矛盾と、それらすべてを貫いているある絶対の真理(法則というべきか?)というものが、厳然と存在するのを、身を以って教えられたように思う。
そういう普遍的な真理というか、先に向って祈り、瞑想するうちに、自然と先祖や民族の守護神にも手が合わさるようになり、ここ数年は、自分が、韓民族の後裔として日本に生まれ、インド舞踊を通して"神"の愛にめざめたことの不思議に思いを馳せていた。
8・15解放記念日を、民族・未来・創造という視点で捉え小刻みに対立し、分散している在日同胞社会に、文化による一大結集をよびかけているこのフェスティバルに、私はなんともいえぬ、おおらかな愛の波動を感じ、微力ながら、自分も賛同者の一人にして頂いた。
ベンガルの詩人、タゴールの歌を数曲踊ることになるので、ここにタゴールの詩を一つ紹介して、私のメッセージとしたい。
アジアの輝かしい黄金時代に、
コリアは その先のにない手の一人であった。
その国から ふたたび光が放たれるとき
東方の光が 遍く世界を照らすであろう。
1987.6.30.かん・みな
姜 輝 鮮
(民族舞踊)
1980年5月 朝鮮舞踊研究蹄設立。
1981年9月2日 第1回発表会。
1982年8月31日 第2回発表会。
1983年9月3日 第3回発表会。
1984年8月30日 第4回発表会。
1985年8月30日 第5回発表会。
1986午9月5日 第6回発表会。
朝鮮舞踊は、楽天的な我が民族の生活の中から生まれ、悠久な伝統の中で洗練されてきた世界にも誇らしい民族舞踊だと信じています。想えば、私が子供の頃に一世達の踊っている楽天的で大衆的な朝鮮舞踊に接した感触が、今日の私の舞踊生活につながり、研究所
設立の契機にもなりました。
この間、たくさんの同胞が、朝鮮舞踊やチャンゴに接することによって民族意識を高め、とりわけ幼ない子供達の心の中に民族意識が日々高まっていく様が、まことに喜ばしく思われます。私は、祖国の統一を願い、後代育成に全力でぶつかって行きたいと思っています。
朴 秀 勝
(憂歌団ボーカル)
悲しみも、国も、民族も越えて
みんな仲良く
のんびり元気で
空の下夢見て歩こう
朴 実
(民族名をとりもどす会)民族名をとりもどして第3回18・15フェスティバルおめでとうございます。
私にとって今年は16年ぶりに民族名をとりもどせた記念すべき年です。6月17日正午頃、出先に妻から電話がかかってきて突然「あなた勝ったのよ…」という声が飛び込んで来た。これが今回の勝利の第一報であった。最初は何のことか分からず戸惑ったが、話を聞くうち「氏」変更の申し立てが認められた事が分かった。しかしすぐには信じられなかった。私の前回の申立てを含め、他の仲間達とこれまで5回も却下されていたからであった。今回(今年1月)の再申立ても敗ける事を覚悟して高裁へ即時抗告をする準備をしていただけに俄かには信じられなかった。日時が経つにつれ、徐々に本当に勝ったという実感が込み上げて来た。それと同時に「新井」「朴」という2つの姓で揺れ動いた自分の過去がふつふつと思い浮かぶのだった。朝鮮人である事を否定し、そこから逃げ隠れする為こ使った「新井」姓。過去の歴史を学び、民族をとり戻そうと必死に生きてきたこの17年間。思えばアボジが「創氏改名」によって「新井」を強制されて、やがて50年になろうとするのだ。
今回の審判によって「更に帰化を容易にするものだ」との批判が一部にある。しかし、帰化者約14万人、その子供約20万人(推計)それに国籍法改正後増加する「混血」日本籍者など、在日朝鮮人にとって日本籍者の問題は避けて通れない。日本社会では国籍がどうであろうと、「朝鮮人として本名を名乗って生きる」このあたりまえの事があらゆる民族差別に阻まれ容易でない。この事を先ず問題にし、それと闘っていくと同時に、私達が奪われた民族性をとりもどし、それを次の世代に伝えていかなければならない。その意味でこのフェスティバルのスローガンである「民族・未来・創造」は我々の課題そのものである。一日も早く祖国の民主化、続一が達成されるよう、我が民族が一体となる日迄、共に闘っていこう。
崔 洋 一
(映画監督)
昭和24年、長野県生まれ。カメラマン志望だったが、高校時代の先輩の誘いで、照明助手として映画界に入り、のち助監督となる。
51年「愛のコリーダ」でチーフ助監督を務めたあたりから、その演出の力量が注目され始めた。待望の監督デビューは、58年「十階のモスキート」、その後、59年「いつか誰かが殺される」、60年「友よ、静かに瞑れ」などハードボイルドタッチの演出の領域を広げ松田優作を起用したドライなCM、又TVドラマ「恋物語」など手がけている。今回は、原田知世主演で再びハードボイルドな演出に挑戦する。有体にいえば<祖国>という言葉の意味とか文体が近ごろの俺の内でいま一歩心に踏み込んでくれない。なぜだろうと考えている。それは俺がここに存るからなのかもしれないし、はたまたここの空気がそのように俺をパッケージしているからなのだともいえる。いま安い不幸で最低の幸福なことはテメエが年まれて育った場所は北とか南とかいわれる・もしくはいってしまう非情の河の向こう側ではなくまぎれもなく彼の地に極する<ニッポン>であるという現実である。肉体全部がアイディンティティーという父や母ともちがう・ちがってきた俺が存るということである。<祖国>が見えない感じないイライラを俺は自己の恥とは思わないし隠してもこなかった。あえて短絡にいえばそれはいつの日かテメエの業のはてに出会えばいいものだと想う。肉体と肉声をフルスロットルにする日はそんなに遠くないという俺の勝手な予見である。
岡本愛彦
(映画監督・大阪経済法科大学教授)第3回「8・15民族・未来・創造フェスティバル」を、熱烈に祝福申し上げます。
このフェスティバルに結集された南北の二世、三世の皆さんの熱い血が、近い将来、祖国の自主的平和統一につながるであろうことを、確信しております。南北人民の血は同じです。たとえ、軍事分界線でへだてられていても…。
統一、万歳!
崔 光 鎬
(写真家)理由もなく清らかな心で統一を願っているのですか。
空を仰いで一点の恥もなく生きろと言った尹東柱詩人の恨み多き死を覚えていらっしゃいますか
お互いの思想と理念が異なって南北が38度線に分かれて42年
異国日本の地の僑胞社会。目に見えぬ38度線とはこれはまたどうしたことなのか ひとつになろうという願いから小さなカ ながらもここに集えば
我々は子孫にりっぱだったと自慢もできよう
僑胞の一世代が死にゆくように統一の一世代も死んでゆく
一民族のいとしい同胞の恨を解いてゆくためにも思想と理念の争いを捨てて清らかな心でひとつの祖国になることを析りながら‥…
白 竜 (ロック)
本名 田 貞 一
1952年10月3日
佐賀県伊万里市生まれ
79年12月キティ・レコードよリシングル「警告」で
デビュー。以後、LP「鳳仙花」「サード」「光州シティ、シングル「アリランの唄」「夜に吠えろ」「サイレントダンサー」など。
映画「いつか誰かが粒される」などに出演、1985年3月には、筑波学園都市にライブハウス「29BAR」をオープン、歌手・オーナー・俳優として精力的に活躍している。
©1985-2001 OneKoreaFestival.
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