(1997)

「ワンコリアフェスティバル」によせて


 

  「ワンコリアフェスティバル」は、「生野民族文化祭」、「四天王寺ワッソ」などと並んで現代の在日コリアンの魅力あふれる祭だ。
 これらは、80年代の大阪であい次いで始められたもので、民族をテーマにしながら、それぞれ異なる特色をもっている。

 民族とは何だろう。普通には「民族」は共通の祖先、文化を持つ人々の集まりで、大昔から現在まで連綿と受け継がれてきたものと言われている。しかし近年、「民族」はむしろ近代以降の様々な社会・政治状況のなかで、人々が集団として結束するために作り出されるイメージであるという見方が有力だ。

 コリアンにとって「民族」は、長い歴史の背景をもっており、単なる虚構のイメージなどではない。しかしその形は生い立ちや世代、地域、教育など人によってまちまちであり、とても一つに集約しきれないことも確かだ。
 とくに若い人々にとって、「民族」とはとらえ所のないもの、なにか苦手であまり関心をもてないものかも知れない。
 在日コリアンの祭りは、参加者たちの模索の過程を通して、このような若い人々に「民族」のイメージ・形・感覚を示し出すはたらきを持っている。

 「ワンコリア」は文字どおり「一つのコリア」をうたうものだが、政治的統一を直接に計画するものではない。今日「政治統一」を掲げれば、それだけで分裂の原因になる。だから、一見「まあ、ええやんけ」式に、在日をめぐる様々なジャンルのパフォーマーに参加してもらい、若い人々を魅き付けることに成功したこの「祭」は、それが続いているだけでも大きな意味があるだろう。

 しかし、この「祭り」はそれだけではない。年々かたちを変え成長してきている。日本人を巻き込み、中国の朝鮮族を巻き込み、北朝鮮、韓国の芸術家たちを巻き込み、東京を巻き込み、さらに広い世界を巻き込もうとしているように見える。「面白かったらええやんか」、「まあ、来てくれや」式に、いろいろな区別の境界をわざと曖昧にすることによって、この渦を増やし大きくしてきている。
 これは実は、大変慎重によく考えられた戦略なのだ。
 「祭り」は、いろんなグループの活動を編集・総合し、一つの場を創造する独自の文化運動だ。どんな「祭り」でもそれを続けるには、年中そのことばかり考え奔走している「お祭り屋さん」がいなくてはならない。「ワンコリア」の鄭甲寿さんは、現代のもっとも注目すべき「お祭り屋さん」だ。このおっさんが次に何を打ち出すのか、僕には分からない。

 曖昧な要素を一杯にただよわせ、現代と敏感に応答しながら、この「祭り」はこれからも姿を変えてゆくのだろう。
 「祭り」の興奮は、それが終われば霧のように消えてしまうが、繰り返すことによって何かが人々の心に沈殿していく。そしてそれが発酵して新たな感情、イメージ、運動を作り出して行く。在日コリアンと日本人が、この「祭り」の中で、共に喜び、その感情を沈殿させ、発酵させつつあることは確かだ。ここから何が生まれてくるか、分からない。
 僕も、この祭りの輪に飛び込んでみたいと思う。

 

飯田剛史 (いいだ・たかふみ)
1949年京都生まれ。
富山大学教授(宗教社会学、比較社会学)。
在日コリアンの宗教、祭りに興味を持ち、研究を続けている。
共著に『生駒の神々』(創元社)、『宗教ネットワーク』(行路社)、『宗教とナショナリズム』(世界思想社)等がある。

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