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対談  松井章圭 & 錦織一清


錦織:: 僕がジークンドーの稽古を始めたのは、今年の一月ですから、実はまだ一年経っていないんです。ジークンドーはブルース・リーが生み出した格闘技ですけど、子供のころブルース・リーにものすごくあこがれましてね。それでジークンドーをアメリカで学んだ御館透(みたちとおる)さんという方が、たまたま僕の知り合いとUCLA時代の同級生で、御館さんが日本で道場を開きたいという志を抱いて帰国したと聞いて、すぐに会いにいったんです。どうか僕を弟子にしてくださいって・・・。

松井:: 錦織さんと私は、ほぼ同世代ですよね。私の場合は子供の時、「空手バカ一代」という劇画を読んで触発されて、13歳で空手を始めたんです。あれはノンフィクション劇画で、大山倍達先生の事が超人的に書かれていますよね。それまで私は、力道山が伝説上最強の人物だと思っていたんですけど、どうやらもっとすごい人がいるらしい。これしかないと思って、道場を見つけて入門しました。

錦織:: 僕もあの漫画は読んでましたけどあれに影響されて空手を始めた少年は当時いっぱいいたわけですよね。でも松井さんのレベルまでいくのは、すごい事ですよね。

松井::私にはそれしかなかった。というよりそれにすがったんです。空手をやる人は、気が小さくて弱い人が多いんです。私もそうです。体は小さいし、勉強もたいしたことはないし、何をやっても長続きしない。姉が優秀だったのでいつも比べられて、コンプレックスが強かったんです。それで強烈にあこがれた空手を習うようになって、幼心に、これが続かなかったら自分の存在価値はないと思ったんですね。これだけは人に負けたくないという意志が強くあって、それでここまできたという感じです。


錦織::
松井さんは格闘技の世界では大変な方で、そういう方を相手に「ジークンドーとは・・・・」なんてしゃべりにくいんですけど、ジークンドーも空手も、その底に流れている精神はあまり違いはないような気もするんですけど、、、。

松井::私は百パーセント同じだと思いますよ。技術が違うだけで、精神は同じはずです。「武術」というのは、矛を止める術で、そこにおける精神のあり方を含めたものが「武道」ですよね。スポーツは元々ゲームだった。もちろん今のスポーツは厳しい面もあるし、競技になっていますけど、発祥自体は楽しむためのものです。でも格闘技は人類発祥のときからあるけど、楽しむためではない。食うため、自分の身をまもるため、人は戦わないではいられなかった。これは苦痛をともなうんですよ。人間は普通、できれば痛みや苦しみは感じたくはないでも生存するために必要である。それで必然的に格闘技が生まれたんですけど、人間は英和があるから、そこに動機づけがほしい。そのうち、戦いを避けるにはどうしたらいいか考えるようになる。だから武術は「矛を止める」事なんです。戦う技術を学ぶんだけど、最終的には戦わないで済む生き方を見つけるために学ぶ。その技術体系がいろいろあって、それがジークンドーだったり空手だったり、柔道だったりするわけです。


戦うには調和が必要

松井::「頂点を極める」という言葉がありますけど、スポーツの場合、その時点で記録が一番だった人が頂点と呼べますよね。でも武道に頂点はないんです。「試合」というのは、その時自分の現状をお互いに「試し会う」ことであって、その後にどういう修行を積むかの指針を決めるためにやるんです。ほんとうは組織を構えている私がこういう事を言ってはいけないんですが、たまに試合はやるべきではないのでは。。。。と考える事があります。試合によって順位付けをするのは、武道の精神から少々外れるのではないか、という気もするんです。

錦織:: ジークンドーは、段位がないんですけど、それがブルース・リーの精神だと思います。それから彼はいろいろな武術を取り入れて自分なりのものを作っていったんですね。たとえば、詠春拳・合気道・ムエタイ・テコンド・エスクリマ(フィリピン武術)といった具合に。でも当時は古伝武術の人たちから、かなり反感をかったようです。

松井::何歳ごろの事ですか?

錦織:: 24、5歳の事でしょう。

松井::澤井健一先生という、中国で12年間修行した太気拳の創始者である先生がいらっしゃるんですが、澤井先生が「若いうちは何でも吸収してポケットに入れておきなさい。すると修行を続けるうちに、ポケットのものを取り出して使える時期が必ずくるから」といっている。おそらくブルース・リーはつまみぐいでいろんなものを見て、それとは別にきちんとある道を修行していたから、あとにジークンドーを生み出せたんだと思います。実は極真空手も同じなんです。大山先生は、「空手に極意はない」という。極真会館で教えるのは基本だけといっても過言ではありません。後は自分たちが体験の中で得てつくっていく。実際、大山道場時代の組み手と、極真会館ができてからの組み手と試合が始まってからの組み手と、どんどん変化している。これは私の特論なんですけど、最終的に武道というものは、極真会館に属していようが、何々流であれ最後はその人流になっていくのかな、と思います。だってある人によって100点満点の業でも、違う人にとって100点満点なはずがないでしょう。体系も筋力も性格も違うんだから。二つの丸が、ぴったり重なる事はまずない。少し重なって、共通する部分や接する部分があって、そこは相手から学び取って、後は残りの丸を自分で作っていく。その作業が、武道修行だと思います。

錦織::まさにブルース・リーの「無法をもって有法となし、有限をもって無限をなす」という哲学とおなじですね。

松井::それから戦う中にも調和が必要なんです。極真会館はフルコンタクトですから、素手でドツキあうわけです。これは、衣を脱ぎ捨てた裸の付き合いでもある。どういう事かというと、相手をきちんと認めないと、次の自分の技は出ないんです。会話もそうでしょう。相手の話を聞いて、何を問うているのか理解しないと、それに対する返答はできない。それと同じで、相手を尊重し、相手を認めなければ、技は出ない。特に実力が伯仲すればするほど、呼吸や力が一つの空気の中に調和されてくるんです。相手の一挙手一投足のすべてに気を配るわけでしょう。すると、だんだん二人の息が合ってくる。たとえば突きなどで力を入れる直前に、力を抜く瞬間がある。呼吸もそれに合わせるわけですから、お互いがお互いの動きを知るためには、お互いの息を合わせなくてはならないんです。そして武道の修行で何が一番大事かというと、この調和という事を、いかに実生活の中で実践するかという事だと思います。空手やジークンドーをやる事が、自分の実生活に何らかの形で生かせないのなら、やる意味がないんですよ。

錦織::ただ「突き」や「蹴り」がうまくなっただけでは、しょうがないですからね。

松井::だから突きや蹴りが、お互いに認め合う事だと、いかに認識して、社会と調和していくのか。それが武道をやる人間にとって一番大事な事だと思います。

錦織::そうした考え方は、ジークンドーもまったく同じですね。相手の練習をしてもいても、中にはエキサイトして殴り合いみたいになる人間がいる。こいつ、殺意があるんじゃないかと思うくらい。実は僕も昨日まで、痣が消えませんでした。そういう時、もちろん御館先生は怒ります。相手はサンドバックじゃないんだ。血の通った人間で、練習のために、君の組み手の相手をやってくれてるんだ。それがなぜ分からないのかって・・・・。

松井::それと同じような事が、我々のところにもよくあります。たとえば昇級の審査会でも、たまに興奮してしまう人がいるんです。そういう時、私は言うんです。「何で最初に『お願いします』と言って、終わって『ありがとうございました』と言うのか分かる?」って。「実際の生活の中で、人間はなかなか裸になりきれない。いつも我を押さえて生きている。でもこうして裸になって我を出しているあなたを、相手は受け入れてくれている。突きも蹴りも受けてくれるんだ。そんな裸のつきあいをしてくれる人に対して、なぜ試合が終わってからも睨み倒すような事をするんだ。相手を尊重しなさい。相手はあなたを尊重し認めているから、受け止めてくれるんじゃないのか。あなたも認められているんだから、あなたも認めなくてはならない。」って。

錦織::でも格闘技のそういう精神って、一般の人には分からないから、随分勘違いされますよね。

松井::空手の団体と言うと、誤解されやすい。実際やる方も見る方も、勘違いしている人が多いのは確かです。それをいかに矯正していくか。それが私たちの仕事だと思っています。

 

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