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『ハナの想い』誕生への軌跡 ◎
『ハナの想い』は、3年前、第5回フェスティバルを迎えるに当たって、ワンコリアのイメージをより広めるために、テーマソングを創ろう、それならば作詞は康珍化氏にお願いしようというアイデアから始まりました。何といっても歌は国境を越え、人をへだてる様々な璧を越えて広がるものだからです。康氏にお願いするに際しては、とくに若い世代が自然に口ずさめるようなさわやかな歌があればいいという想いがありました。これまで統一に関する歌というと、どちらかといえば悲愴な歌か戦闘的な歌が多かったように思います。勿論その中に名曲も少なくありませんが、そろそろ在日の若い世代から統一を願う新しい曲が生まれてきてもいい頃ではないかと思ったのです。そうした思いから康氏に作詞をお願いしたところ、思いがけないほど即座に快諾を頂きました。間もなく完成した詞が私たちのもとに届けられました。それが『ハナの想い』でした。私たちがその詞に感動したことはいうまでもありません。
当然、次には曲が必要なわけですが、これも康氏の提案で一般から広く公募しようということになりました。マスコミや音楽雑誌などを通して募ったところ、二十数曲の応募がありました。それらを康氏に聞いて噴きましたが、残念ながら該当曲なしということになってしまいました。
追加公募をしていたのでは第五回フェスティバルに間に合わず困っていたところ、出演者のお一人であった新井英一氏が作曲をかって出てくれました。お陰でフェスティバル当日、出演者・観客が一緒になって『ハナの想い』を歌うことができ、エンディングも盛り上がって幕を閉じることができました。(ところでその年は、フェス終了後、『ハナの想い』にちなんでコスモスの種を観客一人一人に手渡しました。どこかで花を咲かせているかもしれません。)
さて、結局曲に関しては色々な考え方もあって、じっくりと新たな出会いに期待することになりました。
そして昨年、朴珠里氏と出会い、さらに作曲の吉屋潤氏とも出会うことができました。
今年のフェスティバルでは、じっくりとお楽しみください。
康 珍 化 さんへのインタビュー ◎●三年前、テーマソングの作詞をお願いしたところ、驚くほど気さくに引き受けて下さったわけですが、その時のお気持ちをお聞かせ下さい。
「作詞の依頼を受けた時に、すぐに創ろうと思いました。ワンコリアフェスティバルには賛同していましたし、とくにフェスティバルが政治的でないところと、民族や統一に関する主張もステレオタイプではない新鮮さに共感を持っていましたから。
詞自体もすぐに出来ました。ハナから花を連想し、そこから種を、種から枝や森へと自然に連想が広がり、詞が出来上がったわけです。
詞を創ろうと思った時、もう一つ 想い浮かんだのがジョン・レノンの『イマジン』でした。目をつぶると国境のない平和な世界の光景が見えるような歌です。『ハナの想い』にもそうした想いが込められています。」
●朴珠里さんとお会いした時の印象はどうでしたか。
「はじめてお会いしたのは去年の夏、ホテルのロビーで、彼女は吉屋潤さんと一緒に来ていました。ひたむきで一生懸命な人だという印象を受けました。吉屋潤さんともその時、はじめてお会いしたんです。」
●その吉屋潤先生がつけてくださった曲については、どういう感想をお持ちでしょうか。
「歌いやすくていい曲だと思いますね。」
●最後に、朴珠里さんの今後について一言お願いします。
「とにかく気持ちを込めて歌うことが大事で、今の姿勢を忘れずに歌い続けてほしいと思います。」
吉 屋 潤 さんへのインタビュー ◎●今回『ハナの想い』を作曲してくださったわけですが、作曲にあたっての先生の想いを聞かせてください。
「統一に関しては以前から深い関心を持っていました。私自身が北の寧辺出身で、二十年前に『ヨンビョン ハヌル(寧辺の空)』という統一を願う曲の発表を企画したことがありましたが、それは結局出来ませんでした。統一というテーマは長い間むずかしいテーマだったのです。しかし一昨年『ある少女の統一』という曲を作り、昨年発表することが出来ました。その曲には、北出身である私の統一に対する切実な想いが込められています。『ハナの想い』の作曲もそうした想いから引き受けました。
また、在日の若い人達がワンコリアフェスティバルを何年も日本で開催していたことを知って、大変感動しました。」
●朴珠里さんとの出会いを聞かせてください。
「彼女が、三年ほど前に東京の韓国クラブでジャズを歌っているのを見たのが最初でした。歌もうまかったので“どうしてこういう所でジャズを歌っているのか”と聞いたところ“知り合いの店でオープニング記念に頼まれて歌いました。普段は大阪のロイヤルホテルで歌っています”とのことだったので、その後ロイヤルホテルに聴きに行ったこともあります。
ところが昨年、韓国の現代音響の社長から。“パクジュリという在日同胞の歌手を知らないか”と聞かれた時、パクジュリがロイヤルホテルで歌っていた彼女(本名・朴千秋)と同一人物とは思いも寄らず、“知らない”と言うと、“韓国で今、大変話題になっている。当社で彼女を取り上げたいのですぐ捜してほしい”と頼まれました。分かってみると同一人物だったわけです。そして、『ハナの想い』を知り、現代音響からも正式に作曲依頼があって作曲したわけです。
そうした縁で康珍化さんにはじめてお会いしましたが、今後も一緒にいい仕事ができればと思っています。
●『ハナの想い』は韓・日同時発売されましたが、そのいきさつについてお聞かせください。
「韓国についてはすでに述べたような事情で現代音響から出ることになりましたが、その現代音響と技術提携を結んでいるキングレコードの社長が私の知っている方だった縁で、日本ではキングレコードから発売されることになったわけです。本当は発売日も昨年末の予定だったのですが、色々な事情から遅れ、3月25日発売となりました。」
●最後に、朴珠里さんと『ハナの想い』の今後について一言お願いします。
「彼女がさらに成長し、また成功するように私たちも応援してゆきます。日本の中でも歌を通じた統一ができればと思っています。」
朴 珠 里 さんへのインタビュー ◎●まず『ハナの想い』との出会いについて聞かせてください。
「『ハナの想い』との出会いは、実は2年前のワンコリアフェスティバ ルの会場でパンフレットに載っているその詩を見たのが最初でした。その時に、いい詩だなぁ、私が歌いたいなぁと漠然と思いました。実は東京に出たあと大変お世話になることになるルポライターの柳在順さんにも同じ会場で人に紹介されて会いました。今から思えば、その時の二つの出会いが後に私の運命を大きく変えることになったのです。
その後、本名で再デビューする決心をして東京に出ましたが、本名では引き受けてくれるプロダクションがなかなか見つかりませんでした。
その間、3足千円のくつ下を売ったり、荷物を運んだりのアルバイトをしていましたが、その頃は本当にジレンマに陥ってしまいました。母も東京で苦労しているのを見かねて、何度も手紙や電話で帰ってくるように言ってきました。
そんな時、柳在順さんのマンションの横が偶然に空き、私もそこに移ることにしました。柳さんは劇団『新宿梁山泊』と親しく、ある日その稽古場に行こうと誘ってくれました。そこで代表の金守珍さんとはじめてお会いしました。金さんは、芝居の中にコリアンクラブの場面があるから歌手の役で出るように勧めてくださり、さらに二・三日後にワンコリアフェスティバルの代表が来るから紹介しようと言ってくれました。そして紹介されたのが、ワンコリアフェスティバル実行委員長である鄭甲寿さんだったのです。もっとも実際にはお互いに面識はあったので、久しぶりに再会したことになるんですが。
そこで鄭さんから名刺代わりにと昨年のパンフレットを頂きました。あらためて『ハナの想い』の詩を見て、やはりこの歌だ、ぜひ歌いたいと思ったのです。それで私は次のフェスティバル開催までに曲を決めて出演したいと申し出ました。すぐ鄭さんも賛成してくれました。
さて数日後、金さん演出の『ひまわりの柩』という芝居に歌手の役で出演しました。その時金さんが“本名で歌っていくことを決心した在日三世の歌手、ジュリー・パクさんです”と紹介してくださったのを、観にきていた朝日新聞の記者の方が取り上げてくれることになり、取材を受けることになったのです。記者の方はさらに、鄭さんや康珍化さんも取材され、そして7日8日夕刊に大きな記事として出ました。それが韓国で大変な反響を呼び、有力な韓国紙の全てに掲載されたほどでした。それからは雑誌やテレビなどでも次々と取り上げられました。
そうしたマスコミの報道で私のことを知ってくださった現代音響の社長さんが訪ねて来られました。吉屋潤先生を通してもわからなかったので、直接会いに来たとのことでした。そして吉屋潤先生に作曲して頂くことになり、韓国と日本で同時にデビューすることも決まりました。『ハナの想い』を歌うことになって色々なことが、トントン拍子に進んだわけです。」
●そうした経過があって昨年の当フェスティバルで、日本ではじめて観客の前で『ハナの想い』を歌ったわけですね。
「そうです。演奏してくれたバンドもフルバンドで、ずっとロイヤルホテルで一緒に仕事をしていたメンバーを中心に、仲間が駆けつけてくれました。」
●3月25日に『ハナの想い』が韓・日同時に発売されましたが、韓国では最初から、10曲入りのアルバムでしたね。
「ええ、吉屋潤先生の他にもチョウ・ウンパ先生やパク・コノ先生のような韓国の有名な先生方にも曲を作って頂きました。でも、発音が大変で厳しく指導されました。」
●最後に、今後の抱負を聞かせてください。
「とにかく一生懸命歌ってゆきたいと思います。また、総連・民団を問わず、どこでも歌いたいんです。チョン・ヘヨンさんの 『口笛』など共和国の歌も歌いたいと思っています。そして将来は、統一のために38度線で歌うのが夢ですね。」(1992)
康 珍 化 (かん・ちんふぁ)
1953年生まれ。78年『バスルームから愛をこめて』(山下久美子)で作詞家デビュー。おもな作品に『ヤマトナデシコ七変化』(小泉今日子)、『ミ・アモーレ』(中森明菜)、『悲しい色やね』(上田正樹)、『悲しみがとまらない』(杏里)、『桃色吐息』(高橋真理子)、『君だけに』(少年隊)、『人魚姫』(中山美穂)、『リラの咲くころバルセロナへ』(光GENJI)等がある。作詞の他、映画『稲村ジェーン』(桑田佳祐監督)の脚本など映画やアーティストプロデュースの分野でも活躍。吉 屋 潤 (よしや・じゅん)
1927年生まれ。本名・崔宗洙。52年”吉屋潤とクルーキャッツ”結成、日本ジャズ界デビュー。72年『愛は永遠に』で東京音楽祭銅賞、77年『貴方だけを愛して』でMBS音楽祭大賞。80年『永遠に貴方だけを』で第一回太平洋音楽祭金賞受賞。84年ロス五輪前夜祭に韓国代表として出演。86年アジア競技大会の開・閉会式の音楽監督及び公式歌『朝の国から』作曲。91年マーシャル諸島共和国国歌『マーシャル・アイランズ・フォーエバー』を作曲発表。おもな作品に『ソウル讃歌』『1990年』『離別(わかれ)』『サランハヌン・マリア』『九月の歌』『鳩』等がある。朴 珠 里 (ぱく・じゅり)
1961年生まれ。本名・朴千秋。
”藤川千秋”の名で中ノ島ロイヤルホテルの専属歌手を7年間勤めた後、本名”朴”での再デビューを決意して上京。92年、NHK”第2回新人歌謡コンテスト”準グランプリ受賞。韓国琴や韓国舞踊を得意とする在日3世。
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