第一回に続いて民族衣装のファッションショーを行った他、朝鮮舞踊研究所と韓国舞踊グループ黎明の共演などで構成。しかし、会場の入りも第一回と同様で、広告もガタ減り。「甘くないな」との挫折感で離れていく仲間も少なくなかった。一人、実行委員長だけは「結構おもしろいことやってるやないか」と楽観視(?)していた。

以下、そんな1986年に寄せられたメッセージを紹介します。(当時の原文のまま)

 

崔 淑 姫(韓国舞踊グループ黎明)

 韓国舞踊は生活に最も密着した民族文化の一つです。

 過去においても現在においてもその時代の風潮を最も着実に反映する民族芸術は私達に無言で何が起ったかを語りかけ教えてくれるのです。

 民族文化はいくつもの小さな流れが合流し大河となりおおらかに……。ある時は急流の渦に巻かれて地下に潜り、清き水となって人々の心を潤します。母国の歴史がそうであったように文化もまた同じです。韓国舞踊は文化の生命だと思います。

 


黄 佑 哲(フォークシンガー)

 字をかける人は字を書いて、力仕事をできる人は力仕事をして、金儲けのうまい人は金儲けを、
 それぞれ自分の場所で自分なりに生きてゆく、そこに歌があればもっといい、そこに自分の歌が、
 ぼくらの歌があればもっといい。子供達の歌、オモニ達の歌、力強い歌、やさしい歌、時には激しい歌、やりきれぬ歌があってもいい、前に進む歌があってもいい。

 


洪 栄 雄(フォークシンガー)

 頭の上の旗をおろしてもやしてしまえよ
 自分の言葉でしゃべればいい
 胸の中からなびかせろ
 自分をなぴかせろ

 


金 成 亀(ジャズベーシスト)

 わが祖国が解放されて今年で41年目。ともすれば日本の文化、社会に埋没しがちな我が在日の年活の中で、同胞達はそれぞれの生き方をしています。

 人間の生きるよろこびとは何でしょう。あくせくと働くのもいいでしょう、又レジャーに、趣味に、賭事にと− けれども、それでは人生むなしくありませんか?

 他国で生れ厳しい現実の中で生きている我々同胞達は、やはり心を一つに寄せ合い民族文化に触れ、民族心を高めわが民族の悲願である統一に向けて小さい乍らも波紋を投げかけようではありませんか−

 その意味で、昨年に続く、この8.15フェスティバルは在日2世3世にとって大きな意義のある出来事であると思います。

 今年も此のイベントに参加出来ることはミュージシャンである僕にとって長い音楽生活の中で大変に意義深いことであります。

 此度のステージで演奏します新しい曲"father land 伽ヤ(KAYA)"という曲は、僕が未だ訪れたことのない祖国、故郷を想い、イメージしてみたものです。

 


姜 輝 鮮(朝鮮舞踊研究所)

 朝鮮舞踊は、楽天的な我が民族の年活の中から生まれ、悠久な伝統の中で洗練されてきた世界にも誇らしい民族舞踊だと信じています。想えば、私が子供の頃に一世達の踊っている楽天的で大衆的な朝鮮舞踊に接した感触が、今日の私の舞踊生活につながり、研究所設立の契機にもなりました。

 この間、たくさんの同胞が、朝鮮舞踊やチャンゴに接することによって民族意識を高め、とりわけ幼ない子供達の心の中に民族意識が日々高まっていく様が、まことに喜ばしく思われます。私は、祖国の統一を願い、後代育成に全力でぶつかって行きたいと思っています。

 1980年5月   朝鮮舞踊研究所設立。
 1981年9月2日 第1回発表会。
 1982年8月31日 第2回発表会。
 1983年9月3日 第3回発表会。
 1984年8月30日 第4回発表会。
 1985年8月30日 第5回発表会。

 今年も、9月5日、森ノ宮ピロティホールにて、第6回発表会をもちます。民族を舞う、心を舞う、私たちの熟い思いをお伝えできると思います。

 


金 秀 吉(映画監督)

 経済大(帝)国、右傾化・コード情報化社会とも呼べる現在の日本。

 過剰にうずまく情報の出資者たちは、それにかかった費用のモトをとり、儲けてやろうと、CM広告や情報を「これでもか」と、タレナガしにタレナがす。その当然の原因・結果によるこの商品氾らん時代。

 商品価値のある、また商品価値をこじつけデッチあげられるカルチャーとよべるものは腐るほどあっても、本来、人間を発展育成するための根拠ともなる文化と呼べるものの、いまだ掘りおこされ、再生・創造せられていないと思われるこの日本では、ひたすら「文化代償品」が製造・加工されつづけてゆくのだろうか。

 「新製品」「品質改良品」「小型化商品」ラッシュの安易な便利さのゼニ色の海(膿)に、商品タレナガシ公害におぼれ巻きこまれて、私たちは創り出し、産みだすことのくふうと喜びを忘れてゆくのだろうか、ますます。

 こんな「拝金・拝物・利権第一主義」が大手をふってまかりとおる状況のなかで、私たちは、朝鮮民族の一員としての主体性を獲得してゆくべき運命に位置づけられて存在している。−状況は甘くはない。甘くはない、とコトバだけで言って安心していられるほど甘くはないのだ。足もとの揺らぎを感じないか。

 このどこまでも最悪に近づきつづけてゆくなしくずし時代の状況を変革するためのパトス(情熱)の根拠が、今ほど必要とされているときはない、と思っている。

 8・15フェスティバルが、<解放>を念じて行なわれることをふまえたものであってほしい。そうでありつづけてこそ、少しずつでも着実に、息長く、ふところの深い、人間的な草の根の生活運動として発展してゆくことを信じる。

 人間を束縛するものからの解放と、<祖国・民族・国土>統一の実現をかちとってゆくために。
一点の曇りのない眼と心をもって。

 


京都サークル在日

 1925年、8月15日の解放の日は、分断とは同じ歳月を数えて41周年になる。41年の歳月は、朝鮮半島にも在日にも苦闘の連続の歴史であったことは言う迄もなく、その苦闘の洗礼は、まだ終りそうもない。

 我々は、朝鮮民族の債務であるその歴史を受けとめて明日を引き継いでいくのだ。

 かつて、朝鮮の国が地球上から消え、地図から消え、朝鮮民族は焼いて食われようと、煮て食われようと国家的な庇護は一切なかった。このことは三・一連動、関東大震災にも顕著である。

 41年前、解放の喜びに湧きあがっているさ中、連合国によって民族のゆくてが、サイコロのように振り廻されていたとは…。それはやがて5年後の6・15戦争をひきおこした。民族相食み、この上、何が不足するのか、分断という大きな禍根迄も残した。元来、朝鮮民族はあらゆる外敵にも屈せず団結していた民族であったのに、6・25戦争のために、今日も尚、分断の悲劇を繰り広げているのである。

 朝鮮半島に生きる民族の子、在日に生きる民族の子である我々は、これらの歴史をどう受けとめていくかが課題である。朝鮮半島同胞と、在日・一世二世三世が模索し戦った民族の問題は正に民族の子であるが故の悩み、喜びであった。究極的には、朝鮮統一を夢みながら、南北赤十字会談、7・4会談の有様にその夢が近くなったり遠くなったりしながら。

 我々の課題とは、相違点をふまえながら、あらゆる差別を許さず、基本的人権抑圧には不服従であるということだ。息づまる、そんな中で、我々の祭も必要だ。

 第二回を迎えた民族・未来・創造・ハナの祖国(一つの祖国)フェスティバルに惜しみなく拍手を送ろう。第二回と言えば、2歳の子供に例えられようか…。ヨチヨチ歩きなれど、親の髄亘いと愛情を一身に受け成長していく姿を思う。親は子に祈る。「どんな苦難にも負けるな!」8・15・民族・民来・創造・フェスティバルにも、胎動の頃より民族の祈りがしっかり込められて、歩んでいくようである。果たしてこのフェスティバルの何回目に朝鮮統一がなるのかたのしみである。祭りは民衆の、熱い渇きから始まるのである。

 

 


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