ワンコリアフェスティバル十五周年を迎えて

鄭閏煕(ちょん・ゆに)
「ウリ生活」誌編集人。

 

 わたしとワンコリアフェスティバルとの出会いは十五年前にさかのぼる。したがって代表をしているチョン氏との交際も十五年目に入ったということになる。初回は大阪城公園で、わたしはワンコリアフェスティバルの実行委員がチャーターしたバスに乗り東京から大阪へと向かった。補助席を利用した記憶があるので総勢五十名前後であったかと思う。同乗した一人に映画監督であり、「蒼天航路」で「漫画大賞(講談社)」を受賞した原作者の故李學仁氏がいた。お祭り気分で参加したわたしたちは現地で待っていたボランティア活動でへとへとになってしまった。そうした奉仕活動に業を煮やした李學仁氏の抗議に割って入ってなだめたのがつい昨日のことのように思い出される。大阪に行くことで、関西在住の在日の作家や文化人と接触することを愉しみにしていたせいか、ボランティアが忙しく思うように時間を捻出できないことへのディレンマが彼を感情的にしてしまったようだ。いっしょに彼をなだめたのはロンドンにいる柳基善君だったように思う。

 フェスティバルは舞踊にシャンソン、ファッションショー、ロック、ジャズ、講演などもりだくさんで、午後には激しい夕立にたたれるという始末だった。十月に行われるフェスティバルなのになぜ夏の夕立かといえば、その頃のフェスティバルはパリロフェスティバルといって祖国解放の日である八月十五日に照準をあてていたからである。それにしても焼け着くような炎天下でのお祭りは見る側も見せる側も必死の思いだったような気がする。そんなこんなで一泊の予定が二泊になって我が家の夏期のスケジュールを混乱させて妻に脂を絞られる羽目になった。翌日の新幹線で慌てて東京へ戻った唯一の同伴者は一昨年、戦後在日五十年史の記録映画「在日」を呉監督たちとプロデュースした金昌寛氏であったような気がする。

 その後フェスティバルは東京でも行われるようになり、毎年上野の水上公園のステージで華やかなショーが繰り広げられている。わたしはといえば、ソプラノ歌手の田月仙氏が音楽指導をして下さっている「東京セ・パラム」合唱団の一員ということもあって既に二度ほどステージに立たせていただいた。第一回目の大阪では慣れないスピーチをさせられて冷や汗を掻いたものだったが、もともと歌好きなわたしにとって水を得た魚のようなものだった。しかしアメリカでのフェスティバルに声がかからなかったのはなんとも寂しい。そのように悔やまれた人は少なくないのではあるまいか。そして今年の東京公演は新宿梁山泊の紫テントとのこと。場所を変えることには新しい刺激と息吹が感じられてとてもいい。地域にこだわらず小さなフェスティバルでいいから地方都市での開催も視野においてもいいのではあるまいか。また韓国や共和国での開催も当然計画に上がっているものと信じる。しかしただの見せ物ならそろそろ必要のない時期にさしかかっている。主催者は聞こえない声を聞き取れる先駆者でなければならない。

 十五という数字は軽くない。だからこそ見る側も見せる側もひとつの正念場にさしかかっているように思われる。そうした状況を克服するのは熱意である。「在日」のたゆまない未来志向と祖国統一への民族愛を形象化しようとする熱意である。フェスティバルがその熱い思いを地球上にばらまいてくれることで、しめりがちな母国の暗いニュースにも打ちのめされることなく未来に向かって歩くことができる。わたしたちが失ってならないものはこの熱意である。熱意さえあれば冷めた人の心を暖め焦がすことが出来る。冷えた食事がわたしたちの口になじまないように、熱意のない人たちの行動は少しもわたしたちの心をゆさぶらない。

 

(1999)

 

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