「ワンコリア−鄭甲寿との出会い」

)■... 金 守 珍 ...■(


1987年、僕らは"ロマンの復権"を掲げて新宿梁山泊を船出させようとしていた。6月の旗揚げ講演に使う4トンもの舞台セットを製作するため、法政大学の学生会館地下は鉄工場と化していた。連日連夜汗にまみれ、鉄の溶接を続けていた僕らの前に、鄭甲寿なる人物は突然現われた。

風の噂では、大変無謀な男と聞いていた。そもそもワンコリアフェスティバル自体が無謀なことなのだ。北も南もなく一緒に集まってやろうというコリアの祭典は今まで、ありえなかった。祖国統一はごくあたり前の理想だが、分断後半世紀になろうとする今も、その夢は実現されていない。自明のことが必ずしも認められる訳ではないというのが世の中だ。第一回目、第二回目のワンコリアフェスティバルは惨憺たるものだったと聞いた。その三回目を懲りずにまたやり続けようとして、鄭甲寿は僕の元へやって来た。

"軽い奴だな"そう思った。会った途端、まるで昔ながらの友人のように、境界線なしに入り込んでくる。彼は何の警戒心もなく、例の笑顔と大阪弁まる出しで、エネルギッシュに理想を語りつづけた。彼は、僕の芝居も観ずに演出をしてくれと頼んできた。"できるなら関わりたくないな"と思い、距離をおこう、深く関わるのは止そうと決めた。統一の理想を掲げながら、2〜3年で消滅していく多くのイベント屋と変わりないと思ったからだ。

しかし彼は恐ろべきバイタリティで、何日間も東京を歩きまわり、民団系と総連系からの協賛広告をとってきた。ひとつのパンフレットに民団系と総連系両方の広告が載ったのを見たのはワンコリアが初めてだった。その実行力に驚き、この口先男には"何かある"と思い、とりあえず演出を引き受ける事になってしまった。この時に梁山泊の役者である金久美子と朱源実も司会として参加することになった。

僕は演出プランを出したが、スタッフといっても素人の寄せ集めで、作業は遅々として進まない。結局、大道具を演出自らたたくハメにおちいってしまったが、一つの祭典をつくろうという手ごたえが感じられた。

その後、梁山泊事務所が鄭甲寿の東京支部となってしまった。朝鮮人特有の図々しさと家族主義から、彼のペースにどんどん引きずり込まれるのだ。"あのう…甲寿さんが事務所に泊まりたいとおっしゃるんですけどォ…"僕と甲寿が旧友とばかり思い込み、困惑顔の団員が遠慮がちに報告する。僕は唖然としてしまった。事務所に来て電話は使うわ、宿泊するわで、出会ったときにも増して彼はあつかましさを発揮していた。

にもかかわらず、二回目の演出をすぐOKしたのは、最初にやりきれなかった部分をやりたいと思ったからだ。僕は懲りずに一回目を上回る派手なプランを作った。今度はセット作りの人間が突如消えてしまうというハプニングがあり、結局二回目も演出どころではなく、大道具係となってしまった。三回目の時は、「人魚伝説」という芝居の最中なのに、気付いたら演出を引き受けていた。出演の合間に飛行機で駆けつけ、帰りの飛行機に乗り遅れて、本番30分前に舞台に辿り着くという綱渡りをやり、団員をハラハラさせた。

8月にフェスティバルを開催していた頃はいつもその時期に芝居がないので断る理由がなかった。「パリロ」から「ワンコリア」に変わり、開催が10月になった時は、内心ホッとした。毎年その頃は梁山泊の芝居があるからだ。梁山泊は89年の韓国公演を初めとする海外公演や日本各地での公演等、かなり精力的に活動を行っている。梁山泊だけでも大変なのに、と思いつつ、毎回演出プランだけは出して協力を続けている。

ワンコリアも今年で9回目。年々参加者も増え、南北のみならず多くの日本人も参加するようになって、祭典と呼ぶにふさわしい顔ぶれが集まるようになったのは嬉しいことだ。

鄭甲寿は出会った時と変わらぬ情熱で、疑う事なく自分の夢を突き進んでいる。いいかげんな奴と思っていたが、10年続けて貫き通した彼の意思は大したものだ。

僕の知る彼は明るく、バイタリティがあり、図々しく、無邪気な大ボラ吹きである。だが内心はきっと厳しいはずだ。いろんな風圧に彼が耐え、継続してきたことに共感する。"ハナ"を一緒に続けることで一つになる夢を見ている。彼の単純で強烈な想いは、不可能を可能にする。一人一人の出会いを大切にしながら、全国を資金集めに奔走する彼には、単なるビジネスとしてイベントを扱うプロにはない魅力がある。一人の人間として自己実現していくことが、フェスティバルに直結している、そんなアマチュアの良さを失わないでほしいと思う。

もうひとつ言いたいのは、彼の家族のことだ。彼が続けてこれたのは、家族全員の理解と支えがあっての事だ。一家の暖かな支えは何ものにも変えがたい。梁山泊が大阪へ行く度、オモニが手料理を差し入れてくれるのも有難いことだ。

さて、彼は今、東京でサウナを泊まり歩いている。彼が昔泊り込んだ事務所は火事で焼け出され、新しい事務所は宿泊できないからだ。だが、したたかな彼のこと、事務所を事務所を東京での連絡先に決めている。団員はあたり前のように、見知らぬ人の伝言を彼に伝えている。いつの間にかまたペースにはまっていることに気付く。本当に彼のバイタリティと図々しさは並大抵ではない!だが、大阪でのチケットを売りさばく腕には感服するし、梁山泊が大阪で知られるのは彼のおかげによる所が大きいのは確かなので文句はない。

しばらくワンコリアの演出から遠ざかって感じることがある。…どうも物足りないのだ。10年目の区切りにはまた参加して、セットをたたきに行こうと思う。

鄭甲寿よ、僕もまた懲りない人間だ。

(1993)



 

 

金守珍
(きむ・すじん)劇団新宿梁山泊代表。77〜79年蜷川幸雄に師事。79〜86年状況劇場を経て、88年新宿梁山泊を旗揚げ。89年「千年の孤独」テアトロ賞受賞。日本・韓国・西独(旧)で絶賛を浴びる。1997年にはオーストラリアの国立演劇学校から「特別講師」として招かれ、世界に通用する演出家と評判を呼んだ。2000年は6月に「愛の乞食」「アリババ」のアトリエ公演を行った。演出以外にも広く劇術活動を行い、外部公演への出演、「家族シネマ」(98年)等の映画、NHK大河ドラマ、CM出演等、役者としても広く活躍している。来秋上映の映画「夜を賭けて」の監督を務めている。

 

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