「無理ですよ。僕等に対する偏見が日本の社会から失くなるなんて考えられないよ」
友人は声を荒げて言った。
「いや、私はそうは思わない。そんな時が近い将来必ずやってくる」
先生は友人の目を見て話された。
「三世代はかかるんじゃないかな。七十年、いや百年かかると思う。僕等のことを特別視する、あの不愉快な眼は…」
私はあきらめたように言った。
「私はそんなふうには思わない。ちいさな種が巨木になるんだよ。その種を蒔くことが大切なんだよ。ほら少なくとも、私と君と、ここにいる皆は違うんだから」
「そうかな」
「そうだ」
先生は我慢強く丁寧に、私と友人たちに話して下さった。
酒を飲み、論を交わし、歌を歌い、大声を上げる私たちを先生は笑って見ていてくれた……。
たしかに私たちは若かったし、血がいつもたぎるように熟い時代の真ん中にいた。
かたくなにしか物事を見ることができない私たちに、先生はいくつもの窓を開け、風を入れて、新しい風景を見せてくれましたね。
走り、ぶつかり、しゃがみ込み、戸惑い、失望し、裏切り裏切られ、また走り出し、私たちはいつの間にか大人になり、ふと立ち止まって周囲を見回すと、少なくともあの時代より、少しずつではあるけれど、皆の眼はかわりつつあり、そして何より私自身の足元には、目に見えなくともちいさな苗が風にそよいでいるように感じる時がある。
「巨木の、その樹の枝ぶりや風を受けた時に聞こえるはずのやさしい葉音は、私が生きている間には目にし、耳にすることはできないかもしれないが、けどきっと君たちには君たちと同じぐらいの背丈になった若木を見ることができると信じているよ。それが生きるってことなんだ」
あの頃何度聞いても、そんな時代は来るはずがないと思っていた私が、友と私の後輩たちのたしかな足音を感じている。
この国で生まれて、この国で育ち、そしてこの国から見つめる祖国のまだ顔も知らぬ赤児たちに、いつかあんなふうにして巨木の種の話をした時代を語る時がくるのだろう。直接、その手を握ることができないにせよ、風に乗って垣根を、峠を、海を越えて行く種のように私には巨木が連なる山野が幻の中で見えることがある。
先生、お元気ですか。
相変わらず、お酒を飲んでいますか。
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伊集院静
(いじゅういん・しずか)
1950年、山口県生まれ。
72年、立教大学文学部日本文学科卒業。
広告代理店を経て、TV−CFの企画、作詞、
コンサート演出(松任谷由美、松田聖子、薬師丸ひろ子他)等を手掛ける。
81年『小説現代』誌に「皐月」を発表し、文壇デビュー。
87年「愚か者」の作詞によレコード大賞受賞。
91年「乳房」で吉川英治文学新人賞受賞。
92年「受け月」で直木賞受賞。
(主な作品)
エッセイ集:「あの子のカーネーション」「神様は風来坊」「時計をはずして」(文芸春秋社)
小説集:「三年坂」「乳房」「峠の声」(講談社)「受け用」(文芸春秋社)「潮流」(講談社)他
長友啓典
(ながとも・けいすけ)
1939生まれ。
66年日宣美賞受賞。
69年黒田征太郎とK2設立。
73年ADC賞、74年ワルシャワポスタービエンナーレ賞受賞。
エディトリアル、各種広告、イベント会場構成のアートディレクターとして、また小説の挿し絵、雑誌のエッセイ連載などで活躍している。
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