黒田・中上氏の背中

  伊 集 院 静

直木賞をいただいて、いろんな方からお祝いの言葉や頂きものをした。

中でも嬉しかったのは、ニューヨークにいらした黒田征太郎さんからの速達便から出てきた一枚の絵と手紙。

それにたくさんの電報から見つかった中上健次さんからの祝電だった。


黒田さんはいつも
「おい、伊集院氏よ。早く大阪へ行って、中上氏と二人でなんかやれよ。なんだっていいんだ、酒場だっていいんだ。僕は二人が一緒に何かしでかしているところをこの目で見てみたいんだ。くだらないことに追われちゃだめだぞ、本物だけをやってけばいいんだ。」
と酒場で言っていた。

私にとって中上さんは文学の先輩であり、とてつもなく大きな目標だったから、黒田さんの話が実現する日を心待ちにしていた。

だから、手紙が届き、祝電を見つけたときはその日が近づいた気がした。

ほどなくして中上氏の訃報を聞いた。

私のデビューからの担当のN君が、中上氏の担当だった。具合が悪いと聞いていたから、
「どんな状況なの、中上さんは」
と度々電話で聞いていた。

そのN君から、すぐ和歌山へ行くと連絡があった。頼み事をして電話を切った。その時、ニューヨークにいる黒田さんはどんな気持ちだろうかと思った。言わば戦友のような関係だった相手の訃報を異国の地で聞かされることはやりきれないだろう。

それから一ヶ月経って、私は日本へ戻ってきた黒田さんと酒場で逢った。

中上さんの話はできなかった。その夜原稿が終わっていないせいもあったが、理由はもうひとつあった。


もう一度中上さんの作品を読み直して、私をふくめて私たちが受け継がなくてはならないものが何なのかを、すべてはわからなくともせめて背骨の触れ方だけでも理解してから黒田さんと、中上さんのことについて話すべきだと思った。「十九歳の地図」「岬」「鳳仙花」「火まつり」と読んで行って、あらためて中上さんの怖しいほどの力量を思い知った。"文学の海"の大きさをあらためて知ることになった。文学賞でうかれそうになっていた自分には、水を頭からかけられた思いがして、有難かった。


ワンコリアフェスティバルのことを紹介してもらったのは黒田さんからである。「おもしろいことをやってる連中がおるから、一緒に伊集院氏もおもろがってくれよ」
と酒場で笑って言われた後、前年の会の様子を丁寧な手紙と一緒にいただいた。

黒田さんは
「自分が楽しめて、自分が燃えるんやったら、それでいいんじゃないか」
と私によく言われる。

私も近頃、そう思うようになってきた。大切なのは、その面白さ、密度、濃度だと思う。そうして一度手を握り合えたら、お互いの身体の体温は伝導するものだと思う。

登り方は違うにしても、こころざしで仰ぐ峰は、それが幻であれ、現実であれ、見えているうちが本物の生だと思う。

足を踏み出すのに、肌の色も国の違いも年齢も性別もないと思う。


人間はこの世に生を受けた限り、生き抜かなくてはならない。進まなくてはならないのだろう。死ぬまで歩き続ける。

"進歩"とは単純にそういうことだと考えている。


同じ進むなら、歩むなら、仰ぎ見るものに触れるべく、汗を流すしか私は他に方法を知らない。

それが中上さんの後に続く者の、成すべき事のような気がした。黒田さんがこの輪を私に話してくれたのも同じことなのだろう。


私は二人の背中を見て行く。

(1992)


(いじゅういん・しずか)
1950年、山口県生まれ。 72年、立教大学文学部日本文学科卒業。広告代理店を経て、TV−CFの企画、作詞、コンサート演出(松任谷由美、松田聖子、薬師丸ひろ子他)等を手掛ける。81年『小説現代』誌に「皐月」を発表し、文壇デビュー。87年「愚か者」の作詞によレコード大賞受賞。91年「乳房」で吉川英治文学新人賞受賞。92年「受け月」で直木賞受賞。
<主な作品>
エッセイ集:「あの子のカーネーション」「神様は風来坊」「時計をはずして」(文芸春秋社)
小説集:「三年坂」「乳房」「峠の声」(講談社)「受け用」(文芸春秋社)「潮流」(講談社)他


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