2002年 秋 日韓同時上映 日韓合作映画『夜を賭けて』に賭ける想い

現 場 対 談 -

すべては出会いから始まった


脚本家 丸山昇一

丸山昇一(まるやま しょういち)
1948年、宮城県生まれ。日大芸術学部卒業。各種の職業を経て、1979年にTV『探偵物語』、映画『処刑遊戯』で脚本家デビュー。『夜を賭けて』は29本目の映画脚本。

プロデューサー 郭 充良

郭 充良(かく じゅんりゃん)
1955年生まれ。京都の大学を卒業後、新聞記者を6年つとめ、1986年に貿易会社を設立。91年にアート系の広告・イベント会社のアートンを設立。現在アートンは、アジアをフィールドにした出版社として注目を集めている。最新刊に『毎日あきれることばかり』(三木睦子著)、写真集『LOVE VOICE』(戸崎美和)、『DJ』(佐久間駿。平岡正明共著)などがある。

 



――「ワンコリアフェスティバル」を通して、今まで様々な出会いがあり、梁石日さん原作の映画『夜を賭けて』も、そうした出会いの積み重ねのなかで実現化していきました。そんなふうに、人と人との接着剤の役割を果たすというのも、ワンコリアの大きな役割だと思いますが、まずは丸山さんと郭さんがこの映画にかかわるようになった経緯からお話していただけますか?

丸山その前にまず言っておきたいのは、この映画は、エネルギーの映画です。パワーではなくて、あくまでエネルギーなんです。僕は、出発点から、映画の裏に得体の知れないエネルギーがあることを感じて、これはなんだろうと思っていました。日本のごく普通に作られる映画というのは、そういうものがなくて、単に企画があって、それにみんなが群がってできていく。でもこの映画には、訳のわからないエネルギーを感じるし、映画のテーマも、まさにそれですから。

●●確かにちょっと異様ですよね。ワンコリアとのかかわりで言えば、ワンコリアフェスティバルを鄭甲寿が15年以上続けてきた。すると、始めは軽く見ていた人も、熱心に見ていた人も、さすがに10年を越えると、このエネルギーはいったい何なんだろうと思い始める。そうやって継続していくなかで、いろいろな人たちが、「ワンコリアの鄭甲寿を知っている」という接点を持つようになる。たとえば梁石日さんもワンコリアに賛同してくれている。黒田征太郎さんもそう。今回、監督をつとめる金守珍は、ワンコリアの演出を何度もしているし、音楽監督の朴保もずっと出演している。そして僕と鄭甲寿は、大学の時からの腐れ縁です。そんなふうに、いろいろなところで接点があった人たちが、ワンコリアが続いているうちに、会いやすくなったんですね。甲寿が東京に来ているから飲もうか、みたいな感じで集まるようになり、会えばみんな、いろいろなことを考えているし実践している人たちだから、面白い話が出てくる。そうした面白い話のなかに、大きな吸引力をもって、『夜を賭けて』という作品が存在していたんです。1995年に『夜を賭けて』が直木賞候補になったとき、発表の日にみんなで飲みながら待っていた。なかには、受賞したら映画化しようというつもりで待っていた人もいたようですが、落選がわかったとたんに帰っていく。守珍はそれがどうしても、許せなかった。作品の価値というのは、賞を取った、取らないということとは関係ない。こんな素晴らしい作品なのだから、それなら自分がと思って、その場で「僕がこの作品を映画にしてもいいですか」と手を挙げた。ここからが守珍の真骨頂ですが、とにかく、しつこいんです(笑)。いつか必ず実現させるぞと、ずっと思い続けている。そのしつこさと、彼のものを創るセンスというものに注目している梁さんがいて、なんとかいい形で実現化できないかと思って、いろいろな人に話をする。そのなかに、僕もいたわけです。始めは僕も、「お手伝いできれば光栄だ」くらいの気持ちでしたが、出会いの積み重ねのなかで、総合プロデューサを引き受けることになった。ですから、この映画が生まれる出発点で、結果的にワンコリアが果たした役割は大きいと思います。黒田征太郎さんも、ある頃から、僕らが本気だと感じるようになったんでしょうね。あるとき、「丸山という男は、優作の作品を一番多く書いた脚本家なんだ」って言うんです。「優作って、あの松田優作ですか?」って、声が上ずって(笑)。僕らにとって松田優作というのは、それほど大きな存在ですから。すると黒田さんは、「できるかどうかはわかれへんけれど、一度紹介だけしてみようか」と言ってくれた。守珍に話したら、最初は冗談だと思ったみたいですね。丸山さんが書いてくれるわけがないって。

丸山僕が梁さんの名前を初めて知ったのは、映画『月はどっちに出ている』です。原作・梁石日と、不思議な名前が書いてあるから、いったいどういう人だろうと思って。本屋に行って『狂躁曲』を買ってきて読んで、「ヘンな人が出てきたな」と思いました(笑)。作家なのか、ただルポルタージュが好きなタクシー運転手なのか、作家趣味の在日の人が小遣い稼ぎに書いたのか(笑)、まったくわからないけれど、ヘンな魅力がある。それからしばらくして、たまたま本屋で、『夜を賭けて』というタイトルが目に飛び込んできた。なんといいタイトルだろうと思ってひょっとみたら、梁石日という名前が書いてある。タイトルに惚れて買ったんですが、読んで圧倒されました。とにかく、すごい小説ですから。これはエラいことになったぞ、と思いました。こんな作家、今まで日本にいなかったって。それから何年か時が流れて、ある日突然、下北沢で「レディージェーン」というジャズバーをやっている大木雄高さんという方からお電話をいただいた。大木さんは昔、松田優作さんを通じて知己を得た方で、エッセイストとしてもプロデューサーとしても活躍しているし、五臓六腑に響きわたる言葉をひょっと言われる。僕にとってたいへん刺激的で、尊敬している人です。その大木さんが、電話でぼそぼそっと、「金守珍を知ってる?」って言うんです。もちろん名前は知っていました。映画界では知る人ぞ知る存在で、「金守珍というすごいヤツがいるから、一度芝居を観に行ったほうがいいよ」って、何人もの人から言われていましたから。大木さんは続けて、黒田征太郎さんが、アートンという会社の郭さんという社長と会ってくれないかと言ってるんだけど、どうだろうと言う。僕にとって黒田征太郎さんは、松田優作さんが亡くなってからは、表現する人としてはただ一人心酔している人で、本人を前にするとあがって何も喋れなくなるくらいあがめている人です。その黒田さんが「どうだ」と言って、大木さんが仲介して僕に電話をくれて。お二人からそう言われて、会わないわけにはいかないじゃないですか。でも、監督が新宿梁山泊の金さんで、原作が梁さんで、プロデューサーの郭さんもお名前からして在日の人でしょう。そこで思い出すのは、『月はどっちに出ている』で、あれが成功したのは、原作を始め監督が崔洋一、プロデューサーが李鳳宇、脚本が鄭義信と、全員が在日だったからだと思っていた。映画というのはディテールが勝負ですから、在日の方たちの心情的な部分とか、肌合いみたいなものは、僕には絶対に書けないと思いました。ただ、あの小説の第一部を映画化するのだとしたら、脚本家としてやりたいな、という気持ちも、一方であるわけです。あるけれど、自分には書けない。それに一年ぐらいはスケジュールが詰まっているので、実際問題、無理でした。でも、僕にとってはこの世で一番影響力の大きいお二人が同時にからんでいる話を、電話一本でお断りするのはあまりにも失礼なので、とにかくその郭さんという方に直接会ってお断りしようと思ったんです。それで、ある秋の夜、レディージェーンにとぼとぼ歩いていったんです。扉を開けたら、まだ口開けの時間なので、お客さんは一人しかいない。僕と同じで、頭がちょっと寂しい人が(笑)。断ろうと思って入っていったんですよ。挨拶したら、「ごめんなさい。僕にはできないので。酒飲んできれいに別れようと思います」と言おうと思っていた。ところが、僕の欠点というか長所というか、会った瞬間にわかるんですよ。もう「丸山です」「郭です」と言い合う前に、決まったんです。やりますって。

――何なんでしょう。会った瞬間にわかる、というのは。

丸山脚本家らしく格好つけた言い方をすると、「この人は修羅を踏んでいる」と思ったんです。笑顔で最初に接する人には、2種類いると思うんですよ。単にお愛想で笑う人と、「いろいろあったけど、もう笑うっきゃないでしょう、この世は」という人と。本当の修羅をたくさん踏んでいて、だけどそんなことは別に言葉に出したり顔に出したりしなくても、会って酒飲めばいいじゃないか、という人の笑顔。僕はそういう人が、とにかく好きなんですよ。滅多に会えませんから、そういう人とは。テレビや映画の世界は、修羅を踏んでいると自分で言う人はけっこう多いけれど、自分でそういうことを言う人に限ってたいした修羅は踏んでいない。例外は梁さん。『修羅を生きる』なんて本を書いて、あの人の場合、まさに正真正銘、修羅の極地ですよね(笑)。とにかく、そういう笑顔だったんですよ、郭さんは。だから会ったとたん、この人とは心中できるなと思った。映画というのは、プロデューサーと監督と脚本家と心中する仕事ですから。それで、その場で態度をくるりと変えた。「やりたいです」って。

●●会った瞬間の気持ちというのは、僭越ながら、僕も同じなんですよ。細かいことを言えば、僕以外にも他のお客さんはいたんですよ。それなのになぜか、丸山さんは入ってきた瞬間、パッと僕のことを見た。不思議なのは、その瞬間の衝撃のようなものが、見えない力となって他に伝わっていく。僕はその場で梁さんに電話をして、「今、丸山さんと一緒にいる」と言ったら、「今、どこや。待っとけ」とか言って、車を飛ばしてすぐに来てくれたんですよね。

丸山その日、梁さんは徹夜で『さかしま』を書き上げたところだったんですよ。原稿を渡してホッとして、さあビールでも飲んで寝よう、というときに電話を受けて、すぐにすっ飛んできてくれた。僕はそれまで梁さんに会ったことないわけですから、小説のイメージから、凄い人だろうなと思って、カチカチに緊張していました。握手する手が震えていましたもの。そうしたら、とても柔らかい手で。しかも実際にお会いしたら、みんなご存知のように、あのオッサンじゃないですか(笑)。それですっかり、梁マジックに引っかかってしまった。僕はそこで再び、「やりたいです」と言いました。ただ、条件がある。春まではスケジュールがいっぱいなので、それ以降ではないと取り掛かれない。それと、最終的には金守珍さんとお会いしてから決めたい。やっぱり、合う合わないがありますから。それからほどなくして、下北沢の本多劇場に新宿梁山泊の『少女都市からの呼び声』を観に行きました。驚きましたね。こういう演出家がいるんだって。というのは、丸ごと映像なんですね。しかも芝居のつけ方が極めて正確だし、野心的だし。本当にみんなが言うように凄いヤツがいるんだなぁと思いました。ちょうど千秋楽の日で、近くの飲み屋で打ち上げがあるというので行ったら、なんと座長が司会をして、めちゃくちゃ神経を使っているじゃないですか。これにも驚きました。一次会の後、改めて場所を移して守珍さんと会うことになって、そうしたら朴保さんも一緒にいらして、その場で『ケンチャナヨ』を歌ってくれた。実はこの歌は僕にとって、とても大きな意味をもってくるんです。


 歌に救われて

丸山守珍さんと最初に会った段階で、100%やることを決めてはいましたが、ひとつ大きな問題があった。在日の人たちの、あのあっぱれなエネルギーを描くわけですが、結局は笑い飛ばすわけじゃないですか。ろくなもんじゃないって。それを、はたして日本人である僕が書いていいのか。僕は、誰に対しても、どんな民族に対しても、差別意識はないです。でも、偏見はあります。あって不思議ではないと思っているから、それをとっぱずそうとは思わない。でも、笑い飛ばしてはいけないんじゃないか。いくらなんでも、それは差別だろうという思いが僕にあった。守珍さんは、口を酸っぱくして何度も何度も言ってくれました。「関係ないですよ、そういうことは。真実を描けばいいんだから。日本人も韓国人もナニ人も関係ないですよ」って。でも、どうしてもそこの迷いが乗り越えられなくて、悶々としていたんです。そんなとき、守珍さんからもらった朴保さんのテープをうちでかけて『ケンチャナヨ』を繰り返し聞いていると、「いいじゃない、そんなこと。何をくよくよ言ってるんだよ、おまえ」って気分になってくるんですね。『ケンチャナヨ』という歌と朴保さんの人柄、そして彼のスピリッツに救われた。だから、最初は断るつもつもりだったのが、郭さんに会って少し氷が溶けて、同じ夜に梁さんに手を握り締められてぐんぐん氷が溶けて、守珍さんと会ったら「こいつとやらなかったら脚本家として損だ」と思い、最後のハードルを朴保さんの歌が飛び越えさせてくれた。もうこうなったら、誰にも渡したくない。この映画はオレにとっても一生の糧になると思いました。ここで最初の話に戻りますが、『夜を賭けて』というのは、エネルギーの物語だと思います。パワーというのは一時的なものだけど、エネルギーというのはヒトが地球に生まれたときから溜めている力で、それが理屈抜きに出ているのがあの小説で、それがそのまんまスクリーンに出たら、他になんにも理由はいらない。これを面白いと思わなかったら、おまえ、人間じゃないだろう、という気がします。

●●いよいよ丸山さんが書き始めるというとき、みんなで大阪に行きましたね。去年の5月、アパッチ部落の跡を見に行こう、ということで。

丸山梁さんと郭さんと守珍さんと、あとアートンの社員で今韓国のロケ地にいるスタッフの井上さんと5人で。僕にとってあの旅は、大阪を見ること自体が目的ではなかった。それまでも何度か会って話していましたが、一緒に旅をすることで、僕たちのスタート地点の温度を確認したかった。ひたすら5人で酒飲んで、バカを言って、在日の方たちとも一緒に飲んで。帰ってくるときには、僕のなかでもうある意味で脚本ができていた。それで40日くらいかけて第一稿を書いたら、すぐ守珍さんから電話があって、「これでいきます」って。それからいよいよ、撮影のための脚本を書く段です。伊豆にある新宿梁山泊のアトリエに、守珍さんと二人きりでこもって、お互いに料理し合って、脚本を練っていった。でもときどき、壁にぶち当たることがあるんです。そんなとき、守珍さんが、ひょっと朴保さんの『峠』を流した。そうしたら、とめどなく涙が出て、もうどうしようもないんです。その日は思考が停止してしまって、二人でバカ騒ぎして終わったんですけど、翌朝早く起きて一人でもう一度『峠』を聞いたら、また涙が出る。それでスパッと霧が晴れて、書けなかったところが書けたんです。朴保さんの歌は、朝鮮人、韓国人、日本人、ナニ人、関係ない。人間すべてがもっているものを、理屈もへったくれもなく素直に歌っているじゃないですか。僕はきっとその時点でもまだ、在日を書くことに、わだかまりがあったんでしょうね。人間のエネルギーを描くというけれど、どこか肌質が違うんじゃないかって。それが、書き進めない原因だった。ところがまた、朴保さんの歌で救われた。たぶんそれは、彼の歌のなかにある、根っこから吸い上げられたエネルギーというものの凄さなんですね。

●●僕は、この映画の陰のプロデューサーは、梁さんだと思うんです。そういう意味では、とても幸せな作品です。原作者がここまで肩入れする映画というのは、そうないでしょう。梁さんというのは、僕にとっては、ある意味で巨大な宇宙のブラックホールみたいな存在なんです。宇宙というのは、巨大な空虚があってなりたっている。これは僕の個人的な感じ方ですが、梁さんは巨大な虚無だと思うんです。ただ、梁さんという大きなブラックホールがあることで成立するものというのは、凄い力を持っている。僕たちがこうして出会ったこともそうですし、いろいろな個性の違う人間が、梁さんの前に出ると、心底素直に会えるんです。僕と鄭甲寿もそうだし、金守珍もそうでしょう。とても心地よく会うことができる。かといって真剣味がないわけではなくて、みんなそれぞれの分野で頑張っていないと相手にしない、みたいな、怖い部分もある。でもきちっとやっていたら、梁さんの前に行くとバカ騒ぎができる。僕は、梁さんの宇宙はこれからもっともっと広がると思っています。僕らみたいな人間を衛星や惑星にしながら、梁さんの世界はどんどん広がっていく。その梁さんの世界と、僕らが個々人でやってきたことが、どこか共通して接点がある。そこに僕は、出会いのもの凄い力を感じるんです。『夜を賭けて』で言えば、一人一人が、原作との出会いがある。僕も在日の作家が書いた小説は興味があってずっと読んできましたが、金史良(注)を超えると思える作家にはなかなか出会えなかった。それが梁さんの『夜を賭けて』を読んだとき、やっと会えたような気がしたんですよ。この小説に会いたかったんだと思った。まさに在日の体温を感じるんですよ。だって、親戚に必ずいるようなオッチャンやオネエチャンが、きちっとそのまま出ているんですよ。そのドタバタ喜劇の向こう側に、もうひとつ大きな悲劇が描かれている。小説の力というものを、ものすごく感じたし、僕個人としてのこの作品との出会いがなかったら、僕はプロデューサーをやったりはしなかった。映画を創る過程で、様々な人との出会いがあって、違う分野の人も加わってきますが、変わらず中心にあるのは、原作の力です。

丸山普通、大傑作を書く作家というのは、実際に会ってみるとつまらない人が多いけれど、梁さんの場合、本人がさらに作品をしのぐくらい凄い(笑)。これがまた、驚異的なことで。

●●それにしても、この映画が実現化していく過程を金守珍は「神がかり的だ」と言っていましたが、本当に不思議なことがいろいろあって。十何年も前に北朝鮮でアニメーションの合弁会社が作れないかと頑張っていた人がいて、当時僕もいろいろな人を紹介したりしたことがあったんですが、その人から突然電話がかかってきて、三木睦子さんのところで着物展をするからパンフレットを作ってくれって言うんですよ。昔の縁もあるので引き受けましたが、打ち合わせのために三木記念館に行くと、記念館のスタッフで、映画の話ばっかりするちょっと変わった人が一人いる。着物展のことで行っているのに、「映画どうなってるの?」って、そればかり聞いてくるんです。そしてある日突然、履歴書をもってうちに押しかけてきた。映画を手伝いたいって(笑)。見たら、すごい履歴書なんですよ。実は彼、大島渚監督の映画のプロデューサーなどをやっていた人だったんですね。後で聞いてみたら、丸山さんもよくご存知の方で。そういう人が入ってくると、その縁で、大島組からいろいろな人が来る。次から次へと願ってもない人が出てくるので、金守珍の目からは、神がかり的に見えたんでしょうね。そんなこともあって、いろいろな人も加わり、映画がこうして進んでいるわけです。クランクインの前、オールスタッフが集まっているところに僕も行きましたが、そこでも改めて確信したのは、守珍と僕がしつこく、しつこくやれば、必ず映画はできる、と。格好のいい諦められる場面というのは、今までも何度もあったんです。今だったら、諦めるための大義名分が与えられる、誰にも文句言われずに、「仕方ないね。よく頑張ったね」って言ってもらえるだろうタイミングが。でも、そのときに撤退しないで粘ることで、物事はできていくんだなと、つくづく思いました。たぶんワンコリアも、今まで何度もそういう場面があって、それでもしつこく鄭甲寿は続けてきたんだと思います。


 扉の向うにあるもの

●●僕は、この映画のなかには、梁さんが仕掛けたミステリーがあるような気がするんです。梁さん自身も答えがわからないミステリーが。これは梁さんもチラッと言っていますが、「とにかく扉を開けてみなさい」と。お前たちの手で、扉を開けろ、と。その向うに見えるものを、梁さんはうっすらと感じてはいるんでしょうけれど。それを見たところで、どうなるかは僕らもわからないけれど、そこまで梁さんが言ってくれるのなら、見てみたいなという気持ちがあるんです。

丸山ひとつ確かなのは、開いた扉から、必ず金守珍が出てくる。
あるとき、金守珍が、「今まで映画を一度も撮ったことがないから2、3本短いフィルムを撮ってからでないと失礼だ」と言うので、僕は「そんな必要はない」と言い切りました。そんな小手先のことは、必要ないんですよ。何が必要かと言ったら、魂なんです。「俺がこの映画を撮るんだ」、という魂です。それは彼にはもう充分にありましたから。僕はこう言いました。「梁石日さんも脚本・丸山昇一も、金を集めてくる郭さんも関係ないよ。あんたの生き方だからね、これは。それがズバッと出ないと、この映画は成功しないよ」って。僕もこの仕事が長いですから、わかるんですよ。彼ならできるって。ただ彼は、あちこちに神経を使いすぎる。僕は、それをやめてくれと言いました。とにかく、スター監督になってくれ。在日の星とか、日本の傑出した新人監督とかじゃなくて、アジアの、世界の、スター監督になってくれって。香港でも台湾でも、そういう監督がサラッと出てきているじゃないですか。彼らは、人のことなんか考えてないですよ。自分のことしか考えていない。そうじゃなきゃ、ダメなんですよ。金守珍は、そうなれるはずなのに、自分でそれを制御しているところがある。確かに劇団の座長としては、目配りを欠かさないことが必要だったかもしれないけれど、映画の場合は、それは全部他の人がカバーしてくれる。とにかくみんなが御輿担いで、その上に乗って、いわば独裁者にならなくてはいけない。それができなければ、いい映画は撮れない。やれ脚本だ、やれ、なんだと言うけれど、映画は結局、監督なんですよ。監督がすべてを賭けなくてはいけない。そしてこの映画は、まさに彼にとって、すべてを賭けるべきものだったんですね。『夜を賭けて』という小説、そしてそれを書いた梁石日という人、梁さんが生きてきた人生のいろいろな道筋。それはすべて、金守珍にとって「自分」なんですよ。ただ、それをどうやって35ミリのスクリーンに映しとるか。どうエネルギーを出すか。僕は裏方としてピタッと彼について、エネルギーがうまく出るように、出るように、手伝いたいと思った。とにかく僕は、金守珍に惚れ込みましたから。「俺はあいつをちゃんとした監督にするスタッフの一員なんだぜ」ということを誇りにしたい。映画監督というのは、最初の一本にすべてが出ます。彼にとってその第一作が、「撮りたい、撮りたい」と思い続けてきた作品で、しかも朴保さんや郭さんや、本当に心を分かち合っている人と一緒に仕事ができる。幸福な出会いを、彼は自分で掴み取ってきた。あとは彼が現場でどれだけ鬼になれるか、です。

●●充分、鬼になってると思いますよ(笑)。現場は面白いですよ。一人が韓国語で言ったことに、もう一人が普通に日本語で答えている。意味をわかり合っているんですよ。不思議ですね。通訳を配置してはいるけれど、必要がない場面が多いですね。

丸山最近は、映画でも芝居でも、国を超えてのコラボレーションが普通になってきていますよね。こういうことが普通になると、もうナニ人とか、どこの血であるとか、そういうことは簡単に超えていける。たぶんワンコリアフェスティバルも、そういう姿勢でやってきたのだと思いますが。とにかく、アジアのすごい監督が出てきたと言われる条件は、充分に整っていると思いますよ。

●●これは梁さんもよく言っていることですが、文化に貢献できない経済というのはひじょうに脆弱だと思うんです。ただ、安易に文化の側から、「こんな凄いことをやっているんだから、お金を出しなさい」と言うケースがよくある。でも僕は、映画は商売として成立するところまでが勝負だと思っています。出資してもらったらおしまい、映画を創ってこのストーリーは終わり、ではダメだ、と。利益を生んで、出資者やスタッフに還元されて、そうしたら次にまたやりたいというときに、応援者が増えると思うんです。それをぜひ、この映画で実現しなくてはいけないと考えています。まだ撮影している真っ只中ですが、僕はそんなふうに考えています。最後にこれは、別にワンコリアフェスティバルのために言うわけではありませんが、もう映画がかなり進んでいる時期に、僕と守珍と二人で、今日は朝鮮半島の統一について話そうと決めて、一晩中その話だけをしたことがあるんです。一晩話して、お互いに、「よくわかった。ぜひ一緒に仕事をしよう」と、そこで改めて気持ちを確かめ合った。もう映画が進んでいるのに、もしそこで物別れになったら、すべてがおじゃんになるわけじゃないですか。それでも、襟を正してとことん話し合った。僕らにとって統一というのは、そういう問題ではないかと思います。統一という言葉から紡ぎだされるものは、個々人違うけれど、そのなかに共通のものもあるだろう。共通の部分を持っていることさえ確認できたら、あとはOKだ、みたいなところがある。その部分の確認だったと思います。

――小説『夜を賭けて』のラストシーンは、ワンコリアフェスティバルの実行委員長がモデルの人間が登場して、ハナコールで終わっていますね。

丸山あの小説は、第一部は一気に読み進める。ところが第二部になると、ちょっとしんどい。僕も最初に読んだときには、「なんでこうなるんだろう」と思いました。特に、この小説はいったいどうやって終わるんだろうって、読んでいて想像もつかない。どんな傑作でも、おおよそ想像がつきますが、あの小説だけは着地点がまったく想像つきませんでした。

●●まさか最後が、鄭甲寿だとは(笑)。

――今日は本当にどうもありがとうございました。

司会しのとう由里 撮影鈴木亜希子 会場上野太昌園

(2001)


※『夜を賭けて』は、サッカーW杯の開催年・2002年の秋に日韓同時上映する。

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