ワ ン コ リ ア  2 0 世 紀 対 談

在日・文学対談 << 朴 一氏  玄 月氏


朴 一(ぱく いる)

 1956年生まれ。同志社大学大学院修了。商学博士(専攻:朝鮮半島の政治と経済)。現在、大阪市立大学経済学部教授、韓国高麗大学客員教授歴任。日韓、日朝関係や在日外国人問題に関するコメンテイターとして多数のテレビ・ラジオ番組に出演。行動派のエコノミストである。朝日新聞月刊誌『論座』にて「アジア観察2000」を連載するなど、執筆活動にも精力的に取り組む。著書『在日という生き方』はロングセラーとして知られている。
玄 月(げん げつ)

 1965年、大阪府生まれ。大阪市立南高校を卒業後、様々な職業を経験。その間に大阪文学学校の仲間と同人誌『白鴉』を立ち上げる。同誌にて発表した『舞台役者の孤独』が、98年下半期・同人雑誌優秀作として雑誌『文学界』に転載され話題に。その後、『おっぱい』が第121回芥川賞候補に選ばれたのに続き、『蔭の棲みか』で第122回芥川賞を受賞。最新刊に『悪い噂』(文藝春秋)がある。



朴・
先日、山梨県立文学館というのができたと聞いて行ってきたんですが、その正面に芥川龍之介さんと李良枝さん、二人の顔がどーんと出ているポスターが張ってありましてね。

玄・へえ、それは凄いですね。

朴・賞の名前となった作家と受賞作家、という組み合わせなんでしょうけど、いやあ、嬉しかったですね。二人の顔は縦横四〜五メートルほどもあって、「この前で写真を撮ったら、自分の顔も小さく見えるかな」、なんて思ったり(笑)。こういうのが大阪にあったらいいいのに、とも思いましたね。織田作之助さんあたりから始まってラストは玄月さん、という流れで。さてそれはそうと、今日はワンコリアフェスティバルが御縁で対談することになったわけですが、私がワンコリアフェスティバルと出会ったのは、今から一五年以上前、第一回目の時なんです。当時私は、韓国・朝鮮の書籍を集めた学林図書館というのを御幸森小学校の近くで開いていましてね。公立の図書館に韓国・朝鮮の本がなかったので、約一万冊を集めてボランティアでスタートしたんですが、そこに鄭甲寿さんの弟さんが第一回の実行委員長としてチラシを持ってこられて。今でこそ流行語大賞を取れるくらい有名になったワンコリアという言葉も、当時は「なんのことや?」という感じでした。その頃、玄月さんはおいくつでしたか?

玄・八五年やったら、ちょうど二○歳ですね。高校を卒業して、同胞系の金融会社に勤めていました。

朴・その頃は、もう文章を書いていて・・・。

玄・いや、全く書いていませんでしたね。卒業したし、とりあえず働かなあかんとは思いましたが、将来に対する意識が全然なかったんです。自分のやりたいことも分からなかった。(在日の)皆さんの話を聞いていると、若い時から問題意識をずっと抱えて生きてはるでしょ、一○代、二○代・・・と。僕自身は、何を自分のテーゼとして生きていこうかとか、そういうことを全然考えていなかったんです。

朴・以前、二○代の頃にヨーロッパへ行かれたと伺いましたが、それが人生の転機になったという部分はありますか?

玄・二ヶ月ほどの旅行だったんですが、それが転機になったというよりも、始めから転機を求めて行ったんです。最初に就職した会社に四年間勤務して、「ちょっとここで、動かなあかんなぁ」と感じていたので。

朴・このままじゃ終わりたくない、と。

玄・まあ、そんな感じですね。帰ってきてからはトラックに乗って運送の仕事をしたり、その後は室内のクロスを張る仕事もしました。手に職を付けようかと、軽い気持ちで始めて。技術も覚えたし、結構楽しくて半年くらい続けましたね。

朴・ということは、その後また別のお仕事に就かれたわけですよね。

玄・ええ。イギリスにイングリッシュパブってありますでしょ、重厚なカウンターがあって雰囲気のいい。旅行中、一ヶ月ほどイギリスにいた時によく行っていて「こんな店をやりたいな」と思っていたこともあって。で、そんな仕事を覚えてみようかということでビアレストランに勤めました。それと結婚が重なったんです。二五歳で結婚しましたから。だから、何て言うのかな。僕は何も成してきていないんですよ。子どもってみんなそうですけど、一○代の時なんかは「自分はいずれ、何かができる」って短絡的に楽観的に、そう考えたりしますよね。僕もそのタイプで「そのうち何かできる。自分は何かできる」って思っているうちに二○代半ばになって、「自分は何もできない」って分かってくる。できることが限られてくるんですね。そう思えてきた頃に結婚でしょ。で、子どもができるとなったら、これはますます自分の選択肢がなくなってきたな、と。 焦りが生まれますよね。

朴・先ほど玄月さんが「若い時から問題意識を抱えて」って言われましたけど、私はただ金持ちになりたかったんですよ。父方の叔母に子どもが何人かいて、みんな結構高学歴だったんですけど、就職が全然なかったんですね。その兄貴たちがね、うちは父親が直系の長男だから祭祀(チェサ)をするとやってくるんですが、夜になると酒を飲んで暴れるわけですよ。ビール瓶とかをバーっと投げて、「俺が日本人やったらこんな仕事してへんのじゃ、ボケ!」って。そのビール瓶がね、私は遅く生まれたので高校生くらいでしたが、腹に当たったりするわけよ。だからそういうのを見ていてね、自分はやっぱりそんな生き方はしたくないな、と。まあ、差別とかがあったにしてもね、やっぱり自分はそこに責任転嫁したくない。そう考えていた時に、兄貴たちのうちの一人がね、「おまえも早く就職した方がいい、大学なんて行ってもしょうがないから、早く見切りをつけろ」と言ったんです。その時に私はムカッときまして、「兄貴、あんたが就職でけへんかったのは朝鮮人だからじゃないぞ。あんたが無能やからや」って言ってしまってね。そしたら当然その兄貴もバーンと切れて 、殴り合いのケンカになって・・・。その後「大学に行って、金持ちにならなあかん」という思いであれこれ考えて選んだのが商学部だったんです。

玄・いや、金持ちを目指すんだったら、医学部でしょう(笑)。

朴・医学部だったら小金持ちにはなれるけど、私が目指していたのはそんなんじゃなくて、大金持ちです(笑)。それを実現したのが孫正義さんだと思います。そこで大学では経営哲学を勉強したんですが、貸借対照表がどうとか会計学や経営学をやっていて「おもろないわ」と思ったんですね。そこで一番おもしろかったのがマルクス経済学でね。で、マルクスの『資本主義に先行する諸形態』とか『共産党宣言』を読んでいると、学生運動をしている連中がうまいタイミングで来るわけですよ。「おまえ、それをもっと深く勉強してみたいやろ」と。「それをさらに発展させたのが金日成思想だ」って留学同の先輩が来て言うわけです。

玄・なるほど。

朴・それで、勉強会にも行ってみるんですが、行ったら何かちょっと違うんですよね。「ヘーゲル哲学の終着点が金日成思想だ 」と言う先輩もいましたが、やっぱりなんか違うな、と。そんな時に韓学同の先輩もやってきて「こっちも覗いてみろよ」と言ってきまして。で、そうしてみたら、そっちには可愛い子がいっぱいいたんですね。で、「やっぱりこっちやなあ」と(笑)。そうこうしている内に、同志社や立命館といった関西の大学から韓国に留学に行っていた在日学生が一挙にスパイ容疑で捕まる、いわゆる「学園スパイ団事件」が起こってね。「僕たちは救援活動をしやなあかん」、ということでみんなが燃えたんです。祖国で一生懸命勉強していた人たちが、ソニーのテープレコーダーを持っていて北の放送を傍受したという容疑で、死刑判決を受ける。そんなこと許されるか、と先輩たちが立ち上がって。その時、私たちの中で完全に考え方が分かれましたね。思想闘争をしたら、最終的には祖国で逮捕されて死刑判決を受けるかもしれない。だからこの際、一気にそういう人たちと縁を切るか、それとも正義のために救援運動をやっていくのか。その二者択一で離れていくやつと残るやつに分かれたんですが、私はどうしても向こうに行った人たちを切ることができなかった。で、そのままぬかるみに入っていくように組織での活動を四年間、死にものぐるいでやりました。結局そこで、いつもつきつけられたのは、「あなたは北ですか、南ですか」「あなたは左ですか、右ですか」ということで、となると結局、自分の生き方が限られてくるわけですよ。

玄・当然そうなりますね。

朴・そこで学部を卒業した時に、「このままじゃだめだ」って思いました。玄月さんはそう感じて、いろいろ行動を起こされたわけですが、私も一から勉強し直そうと思い、大学院へ行きました。どっちかという生き方ではなく、もっといろんな生き方があるんじゃないか、ということに何となく気付いたんですよ。その頃に出会ったのが、鄭甲寿さんで、彼はどっちかの生き方を選ぶんじゃなくて、「あれこもれもあるんだ」というのを実践でやっていた人でしょ。取って付けたような言い方になってしまうんですが、「北でもなく南でもなく、イデオロギーを抜きにして在日という大きな舟をつくろう」という考え方は、当時は非常に画期的なものだったんです。玄月さんが鄭甲寿さんと知り合ったのは、芥川賞受賞前のことだそうですね。

玄・そうですね。去年の夏、ぼちぼち雑誌に作品が出始めた頃です。

朴・朝日の文芸時評に写真入りで登場されたのも、その頃?

玄・いや、あれは『陰の棲みか』ですから去年の今時分ですね。その前に芥川賞候補になった『おっぱい』が出たのが去年の夏です。

朴・私も読みましたよ。個人的には『陰の棲みか』より好きですね。在日の人たちの間では、『おっぱい』の方が人気が高いんじゃないかな。これまで経験されたお仕事の話がいろいろと出ましたが、小説を書くこととはどこでどう出会われたんですか。

玄・ずっと、読んではいたんです。小説は。

朴・書くのではなくて? 

玄・ええ。

朴・どんなものを読んでいたんですか。例えばアメリカ文学なら・・・。

玄・フォークナーとか好きですね。最初はヘミングウェイを読んでいたんですが、後からフォークナーの方が合うなと。その他にはジョン・アーヴィングとか。日本文学なら谷崎潤一郎、太宰治なんかも読んでましたよ。

朴・でも書くまでには至ってなかったんですよね。

玄・ええそうですね。調理師の仕事をしながら、休みの日なんかに本を読んで。

朴・本当にいろんな仕事を経験されてますねえ。仕事を何度も変えていきながら、自分にほんまに合うものを見つけようとする人って、実際そんなにいないですよ。自分に合っていない仕事をそのまま続けている人がほとんどだと思うんです。人類の九割がそうではないでしょうか。

玄・ある意味、僕は「これはどうかな?」と思ったら、もう動いているタイプなんです。ひとつひとつやってみながら「あ、これは違うな」と思ったら、また別の仕事を始めてみる。そうこうしている間にも小説はずっと読んできましたから、読む喜びは知っていたんです。その読む喜びが「自分もこんなのが書きたい」という希望・・・というか、欲望に変わっていくわけですよ。またその頃うちの姉が小説を書いていたんです。彼女は文学少女でしたから。姉が大阪文学学校というのに通っているというのも聞いたことがあってね。で、「よし、俺もちょっと小説を書いてみるか」と思ったんです。

朴・それが何歳の時ですか?

玄・二十六〜七の時ですね。と言っても原稿の書き方なんて分かりませんから、まず何をしたかというと、ワープロを買いにいったんです。確か中古で七万円くらいでした。

朴・じゃあ、玄月さんはワープロ作家世代なんですね。

玄・最初からワープロ作家ですね。でも改行のしかたすら分からなくて大変でした。まあ、ワープロがどうとか言う以前に僕がね、小学校とか中学校の時に書かされる作文とか、まともにできた試しがなかったんですよ。

朴・それはええ話やわ。それは学生が聞いたら喜びますよ(笑)。

玄・そうですかね(笑)。結局僕は勉強ができなかったんですよ。うちは五人兄弟なんですが、上の三人はめちゃくちゃ頭がよかったんです。ところが僕とすぐ上の兄貴がどうしようもなくてね。上の三人は家の仕事が大変な時期に学校に通っていたので、仕事を手伝いながら勉強もして。で、下の二人は「仕事をしなくてもいいから勉強してくれ」と言われたのに、しなかったんですよ。

朴・ちなみに、通っておられた学校は民族学校だったんですか。

玄・いや、日本の学校です。

朴・僕と一緒ですね。じゃあ、学校は本名で通ってました? それとも日本名で?

玄・日本名でしたね。

朴・となると、在日としてのアイデンティティを考えたりということに関してはどうでしたか。

玄・考えましたよ。まったく考えなかった、なんてことはないですね。ただ、具体的なとっかかりがなかったんです。僕は猪飼野で生まれ育っているけど、だからと言ってね、よその人は誤解するかもしれないけど、猪飼野に生まれ育てば必ずそういう意識を持つようになるかというとそうでもないわけで。

朴・それはそうですね。でも最近この周辺の学校から公演を頼まれることが多いのですが、本名使用率も高いし、先生方もかなり力をいれて民族学級などの運営に当たっている、という印象はありますが。

玄・実際のところ、同じ生野区の小学校でも微妙に温度差があるんですよ。僕のいた地区は温度が低い方で。でまあ、二○歳を超えたあたりからですかね、徐々に在日文学を読むようになりました。

朴・ちなみに、最初はどなたをお読みになりました?

玄・最初は李恢成さんでしたね。

朴・おもしろくなかったでしょう。

玄・いや、おもしろかったですよ。そこに書かれているいろんなことが、僕にとったら新鮮やったんですよね 。

朴・じゃあ、最も影響を受けた在日の作家と言うと李恢成さんですか?

玄・それは金石範さんですね。イデオロギーがどうとか、そういうのではなくて小説技法が優れているんです。描写力、構成力といった。

朴・やっぱり私とは見るところが違いますよね。私はイデオロギー小説として読んでいますからね。

玄・僕は、特に登場人物に対する描写力に驚きましたね。例えば『烏の死』に出てくる爺さんがいますよね。あんな人がいると噂で聞いていても、あそこまでリアルに描けるなんて、もう凄いと思いますよ。

朴・私は文学評論家でもありませんし、文学ファンの一人として、さきほどイデオロギー小説だと言ったのは失礼だったかもしれませんね。ただ、イデオロギーに翻弄される人の苦悩とか哀れみとか、そういうものが伝わってくる、というかね。

玄・ええ、そうですね。

朴・その点で私は凄い影響を受けたんですよ。金石範さんの小説から。

玄・だから、そのイデオロギーに翻弄される人物の出し入れ、つまり物語の中でどのように入ってどのように出ていくかという部分がものすごく精緻にできているんです。それはいくら知識があってもできないことで。小説家としての技術を持っているからこそできることなんですよ。

朴・凄いな、やっぱり私とは見方が違いますね。いわゆる在日朝鮮人文学という呼び方があるじゃないですか。文芸評論家なんかが言う在日朝鮮人文学というのは、まず書き手が在日朝鮮人で、日本語を使って、そして在日コリアンのアイデンティティの苦悩を描き出す、と。単純に言えば、ですが。で、そういうのを在日朝鮮人文学だとしたら、金達寿さんから始まって金石範さん、李恢成さんときて、今また若い人たちが台頭してきていますが、玄月さんとしては、その流れを継承していきたいと思っておられるのか、それとも破りたいと思っているか、どちらなんでしょうか。

玄・継承するとか、破る、といった考えはないんですよ。自分が思っている小説世界を描いていきたいというだけで。僕はノンポリですから。世代的にも政治と関わっていないんですよ。金石範さん、李恢成さんは政治から離れられない部分があったと思うんですね、世代的にも政治抜きには語れないというか。そいういう部分で僕は政治とは関わりのないところで育ってきているから、意識が全く違うんですね。

朴・例えば、玄月さんが芥川賞を取った後に、金城一紀さんが直木賞を取りましたよね。お二人の作品を比べてみると非常に対照的だと思うんです。玄月さんの作品は非常に重いテーマを硬質なタッチで描いている。ところが金城一紀さんの方は、非常に軽い。言ってみればサブカルチャー的なタッチで描いていますよね。今の時流に乗っているというか。で、私は、玄月さん関してはやっぱり金石範さんたちからの流れの延長にいるという印象があるんですね。非常にしんどいテーマと向き合っているというか。

玄・僕の文章は硬いですか(笑)? 基本的には、自分が第三者として読んでおもしろいかどうか、それ以外には何も考えていないんです。

朴・でもそれは大切なことですよ。私自身も、そうです。と言っても、私は論文が中心ですが。

玄・日に三○○枚は書かれるとか?

朴・嘘です、嘘です(笑)! そんなに書けませんよ。実は今日も『論座』に頼まれた原稿を朝までかかって一五枚書いたんですが、もうひーひー言いながらですよ。で、伺いたいのですが、どうしたら苦しまずに書けるんでしょうか?

玄・僕自身も、小説を書いていて苦しくなかったことなんか一度もないですよ。

朴・それは嬉しいなあ。作品が生まれる時は、苦しみの果ての喜びという感じですか?

玄・できあがって『了』と記す時の、あの喜びは何ものにも代えられないですね。

朴・なるほど。ちょっとこれは勝手なお願いですが、玄月さんには一年に一作、非常に質の高いものを発表して、「これをいくらで買いますか?」と強気で売るような作家でいてほしいんです。

玄・僕の希望としては四〜五年に一作が理想なんですけど。

朴・いいですねえ。ただ食べていかねばならないでしょうから、一○万部売れる作品を年に一作、これでどうでしょうか(笑)。

玄・実際に一○万部売れる本というのは、その一○倍、つまり一○○万人の人が読んで「おもしろい!」と思うくらいのものじゃないとだめだと思うんです。それを意識しながら書こうとすると、どうしても一定の方向へ歩み寄らないといけないんじゃないか、と。

朴・そこは難しいところですね。だたここ数年間の在日朝鮮人文学世界の胎動というのは激しくて、梁石日さんや柳美里さん、それから玄月さん、金城一紀さんと実に次々といろんな方が出てこられましたよね。そしてそれぞれにたくさんの読者を得ている。それを見ていると、読み手は書き手が在日であろうがなかろうが関係ないんじゃないかと私は思うんです。梁石日さんなんかも、あらゆることに関して非常にニュートラルな立場で書かれていますし。

玄・梁石日さんに関しては本当にニュートラルですよね。僕もどちらかと言うとそうです。

朴・もちろん、在日朝鮮人そのものをテーマにした作品もあるわけですが、そこに描かれた在日朝鮮人の苦悩や葛藤を通して、読者は人間なら誰もがぶち当たる普遍的なテーマに出会っているんですね。だから誰が読んでも伝わる。普遍的なテーマを在日朝鮮人というメスでリアルかつビビッドにえぐり出すことができる、という点で在日は「書く」ということに関して恵まれているのではないでしょうか。

玄・それは言えてますね。

朴・以前はマイナーリーグにあった在日朝鮮人文学も、今はメジャー化してきましたし、今後は既存の日本文学をぐちゃぐちゃにして新しい日本の文学を作る力になっていくんじゃないか、と私は思います。そういう意味で、これからが本当に楽しみなんです。最後に玄月さん自身の目標に関してはどうですか。やはり後世に語り継がれるような作品を書いてみたい、という気持ちをお持ちなのでは?

玄・後世に、とまではいかなくとも、五○年後に自分の書いた本が本屋にあったら嬉しいですね。

【終】
(2000)


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