『李慶泰の歩み』刊行委員会編 ―
海風社 ―

分断と対立を超
えて─
孤高の民族教育者・
李慶泰の歩み

 植民地支配下の祖国でお饅頭を売り歩きながら、学費を捻出していた少年時代。家庭の事情で度々中断せざるを得なかった勉強をどうしても続けたくて、たった一人で日本に渡った二十歳の日。それらの行動が全て、亡国の悔しさから生まれた「教育者になって、民衆の教育レベルを上げたい」という思いに支えられていたと知った時から、ページをくる手がどんどん早くなった。若くして自分自身の社会的役割をはっきりと知っていた李先生の生き方は迷いがなく、潔く、情熱が出会いを呼ぶ。

 在日コリアンのための民族学校「白頭学院」を創設し、学校長を30年間務めた李慶泰先生の一代記――そう聞かされて手にとったこの本は単なる記録の域を越え、先生から見た次世代の「在日を生きる」私に、望む道を進む勇気と力を与えてくれるものだった。

 関西大学を卒業し、二つの商業高校で教職員を務めた李先生は、戦後、在日の人々から「祖国発展と平和に役立つ人材を育てて欲しい」との要請を受け、いよいよ民族学校の設立に乗り出すことになる。旧制建国工業学校、高等女学校の初代校長に就任、後に建国中学校・高校・小学校を開設し、学校教育法による「一条校」の許可もとった。大学に進学できる環境を整えるためだ。  

 しかし、いいことばかりではない。時代の流れとともに祖国における南北対立が、在日社会、そして民族教育の現場にも影響を及ぼすようになる。そんななか、李先生は最後まで一つの朝鮮にこだわり続けた。後半部分、朝鮮戦争後、さらに顕著になった南北対立の波を受け、74年に辞任されるまでに起こった様々な事件に対する先生の態度もまた終始一貫していた。

 いわれなき差別を受ける日本社会において、新しい偏見の種を蒔くことはできない──在日社会を大きな家族に例えたならば、その父のような判断力で沈黙を守ることも少なくなかったという。

 そんな李先生の訃報を知ったのは、私がちょうどこの本を読み終えようとしていた日だった。本を通じて先生と出会ったばかりの私は、「ぜひいつか、お目にかかりたい」という希望が叶わなくなったことを、今とてもさみしく思う。先生のご冥福を心からお祈りするとともに、先生が貫こうとした「教育の中立」、そして「一つの朝鮮」の意味を、今一度かみしめている。

( 文責・李淳美/1999 )




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