竹国友康(たけくに・ともやす)
陽春四月、大阪と東京の桜の名所が花見客でにぎわうちょうどその頃、韓国・慶尚南道の鎮海(チネ)でも、街全体を埋め尽くすばかりの桜が満開になる。
韓国にも、たとえば、済州島(チェジュド)・慶州(キョンジュ)・ソウルなどに桜の名所はある。しかし、それらは、日本でのそれとおなじく、公園や通りの一面に桜が集中的に植えられたものであって、そこには、鎮海のように、街全体の街路という街路に十万本をこえる桜が植えられているといった「過剰さ」は見られない。
数年前、たまたま花見に訪れてみた鎮海で、日本の都市でもまず見られない、この「過剰さ」に私は圧倒され、また「なぜ韓国で桜なのか」という疑問も手伝って、この街の桜の歴史を調べてみようと思いたった。
ところで、調べ始めてみると、当り前のことだが、「桜の歴史」は、ほかならぬ「人間たちの歴史」であることがすぐにわかってきた。
韓国海軍の拠点軍港である鎮海は、日本が朝鮮を植民地化する時期に、土地を収用し住民たちを強制移住させて、旧日本海軍が建設した軍港都市だった。そして、その建設当初から、「軍国の花」として、海軍の手によって桜の植樹が積極的におこなわれ、その後、一九二〇年代になると、鎮海は朝鮮第一の桜の名所として知られるまでになった。
「桜は差別しなかった」──鎮海在住のある韓国人が、当時の桜祭りを振り返って、そう話してくれた。日本人たちの作り上げた植民地という制度は、朝鮮人の諸権利を抑圧するものとして厳然とあった。だが、桜の季節、当時「桜の馬場」とよばれていた鎮海の桜の名所には、弁当を広げ車座になった日本人たちを横目に、チャングをたたき、桜の花びらをふぶかせる風に白いチマのすそを舞わせる朝鮮人女性たちの、のびやかではずんだ姿が見られたという。
日本の敗戦後(朝鮮の解放後)、鎮海の桜は、「日本を象徴する花」であるとして、かなりの数が切り倒された。生活燃料の不足という事情もその伐採に輪をかけた。しかし、一九六〇年になって、鎮海の観光資源として、もう一度、街じゅうを桜で埋めつくそうという運動が、鎮海市・商工会議所などの呼びかけで始まった。
それにこたえて、ソメイヨシノ(日本でもっともポピュラーなサクラ)の苗木を一万本単位で送ったのは、鎮海やその周辺地域にゆかりのある、在日韓国人たちであった。その寄贈運動にたずさわった、ある人は、「在日のたましいを心のふるさとに残しておきたかった」と語ってくれた。六〇年代から八〇年代にかけてなされた在日韓国人たちの献身的な協力がなければ、現在の「桜の鎮海」の復活はありえなかったと断言できる。
また、ソメイヨシノを寄贈したのは、在日韓国人だけではない。鎮海で生まれ育ち、そして日本の敗戦とともに「引き揚げた」日本人たちも、鎮海に居住する韓国人同窓生たちからの要請をうけ、苗木を送った。旧鎮海中学(現鎮海高等学校)・旧鎮海高女(現鎮海女子高等学校)出身の日本人たちである。植民地時代に日本人たちがしていたことを考えると、鎮海を「ふるさと」と無条件によぶことはためらわれるが、しかしそこで生まれ育った事実までを否定することはできないと、複雑な胸中をあかしてくれた人がいた。
このような「桜と人間の織りなす歴史」を、日韓の文献にあたりながら、また関係者たちからも話をうかがい、本にまとめ、発表した。その後、読者からのたよりもぽつぽつと届くようになった。そのなかに、私の視野からは抜け落ちていた、北朝鮮の桜の名所について教示してくれた、在日朝鮮人からのたよりがあった。
「一個の植物が一国の侵略にどれだけ活用され、被侵略国がそれをどれだけ憎んでいたか。にもかかわらず、『北』の金剛山にも切り倒されずに並木が保存されていることを知る者としては、サクラよ、よかったなあと思う。」
毎年、桜の季節になると日本では、日本地図のうえに開花時期予想が「桜前線」として表示される。鎮海の桜を調べるようになってから、私は、その季節、桜前線が、日本海・東海(トンヘ)をこえてさらに西へと伸び、朝鮮半島の桜前線とゆるやかに結ばれているさまが、想像できるようになった。新潟・仙台を結ぶ線上をその前線がこえていく頃、ソウルでは汝矣島(ヨイド)の桜が、そして、やや遅れて、金剛山(クムガンサン)の桜が開花するだろう。列島の春と半島の春を、まだ目には見えないこの想像上の前線は、海をへだててすでにひとつに結んでいる。
(1999)
本のデータ
竹国友康『ある日韓歴史の旅 鎮海の桜』
(朝日選書622 朝日新聞社、1999年3月刊)