中村敦夫には、忘れられない記憶がある。小学校一年生の時の思い出だ。
「クラスに一人だけ体が大きくて喧嘩が強い子がいてね。とにかく迫力がある奴で、遊ぶ時はみんなの親分、ワルサする時もいつも中心なんだよ。名前も変わっていて、確か江川尚烈といった。それでPTAの時とか、お母さんたちがその子を呼び出しては、なんだかゴチャゴチャ言ってるんだよね」
その子がガキ大将だとすると、かたやイイ子の代表、町の名士の子として級長をやっていた中村少年。だがニ人は妙に気が合った。
「いつも暗くなるまで家に帰らないで、校庭の隅にいるんだよ。そんな時はひどく淋しそうで、子供心に気になってたんだ」
ある日、江川少年に「うちの遊びに来ないか」と誘われる。だがついていったものの、いつまでたっても彼の家までたどりつかない。いったい何キロ歩いたのだろうか。田圃を抜け、延々と歩き続け、ついに隣町まで来てしまった。さらに歩いていくと、突然、黒い坂道とボタ山が目に飛び込んできた。生まれて初めて見る、炭坑の町の風景だった。
「彼の家は、バラックなんですよ。戸がなくて、ムシロがぶら下がってて。『これがウチだ』と言われた時、正直言つてショックだった。こういう所に人間が住んでいるのかって……」
江川少年は、ある日突然、姿を消す。彼が朝鮮人であったことは、その後、知った。
「たった三ヶ月くらいしか僕らの学校に来なかったんだけど、彼の記憶と、家に行った時のショックは、ずっと頭に残っていてね。文字で知った知識ではなく、肉体を通して自分が経験した差別の現実。それが、否定しようもなく自分に楔を打ち込んだって感じだった」
後になって、植民地支配がもたらした貧困や強制連行のせいで、炭坑夫として働かざるをえなかった朝鮮人の歴史を知るにつれ、小学校一年生の時の記憶が、映画のように鮮やかに蘇った。その体験が、長じて差別や人権問題にかかわるようになった原点かもしれないと、彼はいう。
それから数年たち、東大への進学校として有名だった新宿高校に通うことになった。生徒たちは毎朝、辞書を読みながら正門へと向かっていく。まわりは全員ライバルで、誰もが一人でも級友を蹴落として東大に入りたいと願っている。そんな殺伐とした暗い高校生活に、だんだん我慢ならなくなる。
「もともと管理されたり、人から価値観を押しつけられるのが嫌いなんだよ。試験の点数で人間の価値が決められるなんて、とんでもない。早くこの国を抜け出したい。それもできれば南洋に行きたい。そう思って、東京外国語大学のマレー語学科を受験したんですよ」
ところが入ってみると、そこはまるで商社員養成コースだった。これは違うと思い、結局大学を中退。新劇の道に進むことになる。だが劇団に入ると、そこもまた組織の理屈で動いている。なんとなく違和感を感じているところに、演劇人の奨学金留学の制度を知り、ハワイ大学に留学することになった。
「同じ時期に台湾の学生が留学していたんだけど、当時は蒋経国軍事独裁の時代で、学生十人につき一人のスパイをつけていた。それに彼が引っ掛かった。アメリカの反戦デモに加わったりしてたから。台湾から召喚命令が出て、日本に立ち寄って地下にもぐろうとしていた矢先に、入国管理事務所から呼び出しをくらって、そのまま台湾に引き渡されたんだ。それで向こうで死刑宣告をされた。僕は彼とは面識はなかったけど、大学の先生から『日本で君がやれることをやってほしい』と手紙が来て、彼を助ける運動を始めたんです」
救援組織を作ったものの、人権問題に関心のない時代だったため、なかなか運動が進まない。そんな時、アムネスティ・インターナショナルの存在を知り、日本でも創立しようと走り回る。結果的に、アメリカとヨーロッパと日本のアムネスティの働きが実り、死刑が七年の刑となり、四年の刑となり、現状復帰となってアメリカに戻ることになった。
「彼はその後、ニューヨークで優秀なジャーナリストになるんですが、何十年かたって横浜で彼と会った時、本当にあの時、全力で闘ってよかったなと思いました」
その救援活動を通して、日本の法務省が台湾と密約を結んでいた事実を知り、日本という国家や政治に対する憤りと不信を深めていった。またこれをきっかけに、在日コリアンや中国人など、日本とかかわりを持つ外国人の人権問題にたずさわり、積極的な行動を起こすようになる。中村敦夫が「木枯し紋次郎」で一世を風摩したことは誰でも知っているが、その後のキャスター、ジャーナリスト、選挙への出馬…という動きに驚いた人もいるかもしれない。だがその流れは若い頃から一本の筋として、脈々と流れ続けていたのだ。
コリアとの宿命的な緑
「映画界で仕事をしていると、在日コリアンのスタッフが大勢いるんですよ。本当に優秀で才能がある助監督がいるんだけど、絶対に監督になれない。これは、おかしいと思ったんだよ。そんな時、李学仁という人間と出会った。それでコリアンが監督作品を作るということに意味があると思って、『異邦人の河』という映画のプロデューサーになったんです。在日朝鮮人、在日韓国人、日本人のスタッフと合同で作ろうということで、僕も資金を出しました」
いろいろ問題も起きたが、在日コリアンが本名で作品を作り、それを全国で上映したことに大きな意味があったと彼はいう。
「日本人にもインパクトを与えたけど、在日社会にも刺激を与えたんじゃないかな」
その作品を作る過程の中で、在日コリアンの人たちと多く知り合いになった。そして韓国青年同盟が金芝河の『チノギ』を全国で上演すると聞いて、応援することになった。
「政治を動かすには、政治集会より文化運動のほうがはるかに迫力も影響力がある。そう思っていたから、彼らのその話を聞いて、ぜひ応援したいと思ったんです」
こうして在日コリアンと親交を続けてきたわけだが、さらに朝鮮半島と運命的なかかわりを持つことになる。それまで中村敦夫は、俳優としての仕事をしなから、常に十年先を見ていた。アメリカに滞在していた頃、ようやくテレビのニュース報道番組がアメリカで登場し、キャスターが力を持ち始めていた。日本もいつか、こうした時代が来るはずだ。その時、自分はキャスターになりたい。紋次郎ブームで沸いていた頃にも、常にその先を考えていた。
そして機が満ち、「地球発22時」のキャスターとして新しい出発をすることになる。韓国との新たなかかわりが生まれたのも、この頃だ。
「金大中氏がワシントンに亡命して、帰国を決意した時のスクープ・インタビューを僕がとったんです。なんとかネットワークをたどって、やっとのことで金大中氏までたどりついた。それを彼は受け入れてくれたんです」
金大中氏が一週間、行動を共にして、インタビューをものにした。ところが帰国してみると、この企画をボツにするから了承してほしいと局から言われた。圧力がかかったのだ。
「ところがオン・エア予定日の、変わりの穴埋め番組が間に合わない。なんとか生放送で時間をもたせてくれと言うんだけど、断りました。それで、こう言った。当初の予定通り放送して欲しい。そこいらの田舎の政治家のインタビューじゃないんだ。韓国の歴史を左右するぐらいの国際的な政治家が、決死の帰国を断行する。それに際してインタビューをするという、世界的なスクープをやったんだ。それを圧力で放送キャンセルしたとなると、大変なスキヤンダルになりますよ。もし金大中氏が大統領になることがあったら、どうするんだ、って」
だが担当者は、結局はサラリーマン。ジャーナリストの気質を大事にすることより、保身のほうが大切だった。そこで中村敦夫は、番組の降板を局に申し入れる。
「放送を前提にインタビューをしたのに、放送しないとあらば、金大中氏に対してどう責任をとればいいのだ。あんたたちが責任をとらないなら、自分が責任をとってやめる。そう言ったら、向こうはホッとしてましたよ。だつて僕が責任をとるなら、助かるわけですから。そこで僕は、降板に当たって事の期末を明確にするために記者会見をしますと言った。もう大変な騒ぎですよ」
こんなことで妥協したら、自分は一生ダメになる。仕事を干されようが、収入が途絶えようが関係ない。ここで引いたら、自分は大事なところで必ず妥協する人間になってしまう。小さなところで妥協するならいい。でも大きなところで妥協してしまったら、一匹狼は生きていけない。正義ではない。これは筋なのだ。そう語る中村敦夫に、最終的に局は折れた。オンエアされた電波は釜山に届き、韓国国民は金大中の帰国を知ることになる。帰国当日、金浦空港には大勢の支持者が迎えに出た。空港で密かに拘束しようとした当時の政権の目論見は、成功しなかったのである。
「でもおかげで、その後、選挙の前に金大中氏と金泳三氏の取材に韓国に行った時、ぴったり安企部がつきましてね。どうも僕はKCIAには歓迎されない人間らしい(笑)」
87年には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪れた。つまり38度線の両方から、朝鮮半島を見たことになる。
「招かれて取材で行ったんだけど、向こうが作ったメニュー通りの取材しかやらせてもらえないから衝突してしまってね。それにどうも偶像崇拝、個人崇拝の気配がある。社会主義とか民主主義とは、ちょっと違うのではないか。えらいことになっていると思いました。でも一般庶民や農民は、きわめて素朴で暖かい。当時の韓国はピリピリした感じがあって、日本人に対してきつかった。ところが北朝鮮の庶民は、のんびりしている。朝鮮民族は気性が激しいと思っていたけど、それは近代の過酷な歴史の中で痛めつけられたからそうなったのであって、本来は穏やかでのんびりした面があるのではないかという気がしたね」
韓国も最近は民主化されたが、かつて軍事政権の時代があった。それもまた、分断が原因といってもいい。その分断の原因を作ったのは、日帝支配である。だがそのことと、国が疲弊していること、国の体制がおかしくなっていることは、また別の問題である。
「現実というのは、凄いね。観念やイデオロギーでは割り切れないものがあるからね」
南北朝鮮を取材する中で、何度も割り切れない思いにとらわれた。分断を生んだ原因が日本にあると思うと、なおさら思いは複雑になる。その思いを、どう自分の中で整理していくか。答えは簡単には出ないかもしれない。
楽しい人とつきあいたいから友人にはコリアンが多い。
「僕はどういうわけか、在日コリアンの友人が大勢いるんですよ。気が合うんだな」
その理由を、彼はこう考える。自分自身が、日本という国の持つ本質的な体制や体質と、合わないからかもしれない、と。
「だから、いつも突っかかってしまう。それで、何かを壊そうとしてみたり、ぶつかってみたり、その繰り返しなんだな。いざとなったら殴ってやるくらいの思いが、いつもある。そのせいなのか、日本人より在日コリアンの方が気質的に合うことが多いんだよ」
考えてみれば、小学校の時、江川君と仲良くしていたのも、江川君の特つ何か本質的な強さに惹かれていたからかもしれない。その江川君の消息は、まったく分からない。実業家になっているか、ワルになってるか、あるいは北朝鮮に帰国したか・・・・・日本のシステムに入らない、入れないからこそ、在日コリアンには個性的な人間が多いと彼はいう。それぞれが一匹狼だから、つきあっていて面白いというのだ。
「日本人のサラリーマンとつきあったつて、みんな同じだからつまらない。考え方も生き方も話題もパターン化されて、会社型の思考方法しかできないんだよね。その点、在日コリアンの友人たちは一緒にいて楽しいんだよ」
イデオロギーも何も関係ない。楽しいから友人になる。お互いに言いたいことは何でも言う。時にはマスコミ世界では「差別語」とされている言葉を使うことがある。もちろん友人たちは怒らない。なぜなら互いに被害者意識も加害者意識もない、フィフティ・フィフティの関係だからだ。現在、あるゴルフの愛好会の会長をしているが、彼以外は全員、在日コリアンだ。そのクラブには、総聯系の人も民団系の人もいる。中村敦夫という日本人が緩衝材になっているから、よけいいろいろな立場の人が集まりやすいのかもしれない。
「ゴルフ場では韓国語が飛び交うし、みんな本名だから、ゴルフ場の人たちは僕のことも在日コリアンだと思ってるみたいだよ(笑)。だから、いっそのことコリア調の名前をつけてくれって言ってるんだけどね」
作家の梁石日氏と、ふらっと新宿梁山泊の芝居を見にやってくる。そんな時の中村敦夫は、硬派ジャーナリストであり、政治を目指す男の顔とはまた違う、本当にリラックスした楽しそうな表情をしている。
「人生はいつ終わるか分からないんだから、どうせつきあうなら、楽しい人とつきあいたい。そうすると自然と、在日コリアンが多くなるんだよ」
一匹狼は、大きなところで妥協したら、生きていく価値がない。そう言い切る彼のまわりには、どうやらこれまた個性的で魅力的な一匹狼が大勢集まっているらしい。
「僕らに選挙権があったら、絶対中村さんにいれるのに」 新宿の酒場で、在日二世、三世の若者達がそう語り合っていたことを、ふと思いだした。
撮影:永野佳世/取材・文:しのとう由里/編集:金哲煕
|