青い瞳のコリアン

 


元秀一(うぉん・すいる)
1950年生まれ。大阪市生野区猪飼野育ち。
著書に『猪飼野物語』(草風間)、『AV・オデッセイ』(新幹社)


 ナチスの迫害を逃れてポーランドからアメリカに移住した多くのユダヤ人の中にアイザック・シンガーという作家がいた。アメリカは人種のるつぼといわれるだけあって色々な人種が共同体(コミュニティ)を形成しているのは周知の事実だよね。ユダヤ系アメリカ人もまた共同体を持ち、ユダヤ独自の宗教・習俗・言語を堅持することでアメリカ社会の異化された存在になっている。この共同体ではユダヤ人ゲットーから発生したイディッジュ語の新聞を発行し、イディッシュ語で小説を書く作家を有している。アイザック・シンガーはそんな作家の一人だった。

 ユダヤ系アメリカ作家の中にはマイノリティなユダヤ人の同一性を意図的に小説に反映させる作家がいる一方で、マジョリティな社会に共通する素材を扱う作家がいる。バーナード・マラマッド、フィリップ・ロス、ノーマン・メイラー、ソール・ペローなどなど。数え上げるとキリがない。これら有名な作家が小説で書く言語はアメリカ英語である点で、アイザック・シンガーとは決定的に異なる。

 孤立した言語であるイディッシュ語で小説を書き続けたアイザック・シンガーはノーベル文学賞を受賞している。これは誠に稀有な事態といえるだろう。いや、ほんま。なぜなら、たとえば在日の作家が韓国語で小説を書いたとして、まず韓国語で書かれた小説を読む(あるいは読める)共同体が存在しているだろうか、となればそれは絶望的だな。

 韓国語で書ける作家・詩人も敢えて日本語で書く。そうする以外に読者を得られないから。しかし、小説の言語が日本語であっても喚起されるイメージが土着性(作家の生まれ育った祖国、故郷)をはらむものであるなら、それは方法としての言語となるよね。植民地時代の金史良、戦後の金達寿、金石範、李恢成、金時鐘といった作家・詩人はまさに方法としての言語に日本語を選択したことになる。このあたりの方法論は金石範の『言語の呪縛』に書かれているから、必読の価値ありだね。

 昨年10月、世界各国に在住するコリアンの作家・詩人をソウルに招いて「ハンミンジョック ムナギンテフェ(ハン民族文学人大会)」が開催された。ひょんなことからぼくにも招待状がきて、「ただほどこわいものはあらへんで」という疑念と「こらええがな」と小躍りしたい歓喜のはざまで心が揺れ動いたのは正直なところ、ほんまの話。結局は弾む心でKALに乗り込んだ。「ハン民族」の「ハン」は3つの言葉が掛けられている。「一つの(ハン)民族」の「ハン」、「大きい(ハン)民族」の「ハン」、「韓(ハン)民族」の「ハン」という具合にね。<ワンコリアフェスティバル>は分断された祖国が「一つ(ハナ)」になることを願ったイベントであることは周知のとおり。

 ぼくは二世にあたるが、「文学人大会」の参加者の中に遠路ポーランドからやってきた青い目の美少女二世を見た時ほど驚いたことはない。僕がポーランド語に堪能であったなら、彼女とシンガーの小説について語り明かしただろうに。残念ながらぼくは遠目に彼女を眺めるだけであった。ともあれ、「文学人大会」を通してシンガーがアメリカに移住したように世界各地に移住したコリアンの多彩さにぼくは圧倒されたな。在日というものを相対的に見詰めることができる絶好の機会であったといえるだろうか。

 さて、この4月(1997)にぼくが上梓した『AV・オデッセイ』は奇想天外な物語で、キーワードは「625」になるかな。ごった煮のチゲを食ったような元気のつく面白い小説だ。必読の価値あり。あれ、どさくさにまぎれて自己宣伝してしまった。ミヤナムニダ(ごめんなさい)。

(1997)



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