「コリアン世界の旅」を書いて
フリーランスの記者になって15年になるが、「コリアン世界の旅」(講談社)の取材ほど困難だったものは滅多にない。 とにかく取材拒否が圧倒的に多いのである。とりわけ芸能界やスポーツ界でコリアンであることを公にせず活躍しているスターたちやパチンコ店経営者の6、7割を占めているといわれるコリアンたちの取材は、難航を極めた(ここでいう「コリアン」は在日韓国朝鮮人ばかりでなく、日本国籍を取得した人々や日本人とのダブル、二世、三世なども含む)。 幸いにアポイントメントが取れたとしても、彼らが胸襟を開いてくれるとは限らない。むしろそっけなくあしらわれるか、当たり障りのない話に終始するか、いずれにしても取材の態をなさない場合も少なくないのである。 こうしたコリアンサイドの対応の根底にあるものは、おしらくは日本人に対する深い絶望感である。 どうせ日本人に何を言ってもわかりっこない。下手をすると、かつて週刊誌を賑わせた「パチンコ疑惑」のように、バッシングに利用されかねない。それならマスコミの取材など、はなから受け付けないか、早々にお引き取り願うに越したことはない。祖父母や両親の代から受け継がれ骨の髄まで染み付いた、マイノリティとしてこの国で生きることの苦しさ・辛さが、そのような対応をさせるのである。 日本に住むコリアンの取材を本格的に始めて三年が過ぎた今、私はもし自分がコリアンなら、やっぱり同じような対応をするに違いないと思うようになっている。 ところで、私がルポルタージュを書き始めるきっかけとなったのは、学生時代に五カ月ほどフィリピンのルソン島山間部で、フィリピン共産党のゲリラ組織・新人民軍に従軍したことだが、そのときお世話になった山岳少数民族イゴコットの各村には、私が「叫ぶ男」と名付けた男がいた。 彼は、村人の水牛が盗まれたことから政府軍の部隊が近づいてきたことまで、村に事件が起きたり危機が迫ったとき、必ず高台に上ってあらん限りの声でその情報を村全体に伝える役割をしていた。電話やラジオはもちろん、新聞やビラといった近代的メディアは一切ないこの地域では、「叫ぶ男」がコミュニティーの存亡すら左右する大切な役目を果していたのである。 フリーランスの記者になったとき、私が心中ひそかに思い定めたのは、できるかぎりよき「叫ぶ男」になろうということであった。むろんこのような考えは、取材の現場に赴くたびに厳しく繰り返し問いなおされる。犬でも追い払うような取材拒否に遭うと、何が「叫ぶ男」かと自嘲したくもなる。 だがしかし、今回の『コリアン世界の旅』の取材で、コリアンの方々が私のような日本人ライターを多少なりとも受け入れてくださったのは、もしかするとわれわれ日本人ばかりでなく日本に住むコリアンにとっても、コリアン世界の現実を伝える「叫ぶ男」のような存在が切実に必要とされていたからではなかろうか。 私がよき「叫ぶ男」になれたかどうか、はなはだ心もとない。それでも(いや、だからこそ)私は相変わらず、できるだけ耳のよい、できるだけ声の通る「叫ぶ男」になりたいと念願しているのである。 (※大宅壮一文庫発行の「大宅文庫ニュース」97年7月15日号に加筆したものです)
野村進 (のむら・すすむ)
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