「違い」はあるけど
「差別」はない
社会を目指して

尹建次 & 福島瑞穂


 

尹:福島さんとお話しができ嬉しく思います。福島さんがやってらっしゃることは、夫婦別姓選択も婚外子差別反対も、あるいは戦後補償や元従軍慰安婦の問題も、大きく言えば反差別の運動で、そこに私は少なからぬ関心をもっています。反差別運動というのは、自分自身がマイノリティであれば、自分の問題だからやらざるを得ません。たとえば私の場合は、在日としての民族問題があるわけです。そこから出発して、在日の問題を解決しようとすると、日本社会の変革を考えなければいけない。でもマジョリティの一員として育ってきた福島さんの場合、反差別運動のエネルギーはどこから出てくるんでしょうか?

福島:私は九州の出身なんですが、九州は男尊女卑なんです。男は空威張り、女は芯がしっかりしているけど、ひたすら男をたてる。うちは平凡なサラリーマンの家庭で比較的リベラルな家でしたけど、父は長男でしたから、母は嫁として姑に気を遺い、親戚に気を遺い、ひたすら父をたててきた。そういうのを「見ちゃったな」という感じがあるんです。たとえば父と私が議論すると、後からこっそり母が私の部屋に来て、「あの件に関してはあなたが正しいけど、ごめんなさいと言って父に花を持たせてあげなさい」と言う。そこに、二人の関係が見えるわけです。女は男をたてているけど、どこかで見くびっている。それが嫌だなと思った。見上げるのでもなく、見下げるのでもなく、真っ正面から向き合う人間関係を作りたい。
だから私にとって、女性差別の問題は、母の代理戦争でもあり、自分の問題でもあったんです。それで大学に入って、結婚するとなぜ姓が変わるのかと思って本を読んでみると、戸籍制度そのものが外国人差別、部落差別、婚外子差別、男女差別の根源になっていると気づいた。だから私としては、自分の問題から始まって、法制度上の差別をなくしたいし、自分は差別をなくす方向で生きていきたいと思ったんです。

尹:人は生まれて来ることに関しては何も選択できない。男に生まれるのか、女に生まれるのか、日本なのか朝鮮なのかあるいはアフリカなのかも選択できない。時代も選択できない。つまり生まれるということは、ある意味で運命的なことです。そして生まれてきたら、アイデンティティというものを、基本的には人から与えられる。両親はもちろん、国家権力によって作られた教育制度の中で育っていくわけですから。大人になるにつれて多少矛盾は見えてくるけれど、与えられたアイデンティティを当たり前として生きていく人が多数派で、だから大学を出るとき当然のように会社に就職し、だいたい同じようなベルトに乗って生きていく。確かに福島さんの場合、実生活の中で女性差別を感じてきたかも知れませんが、それを今のように成熟した形で仕事となさるのは、かなり大変なことだと思うんです。

福島:私は恵まれていたんでしょうね。ちょうど私が10代の頃、国際婦人年があって、メディアを通して「女の子も元気でいいんだ」というメッセージがドーッと流れてきた。そういう意味では、時代や先輩たちに育てて貰った感じもあります。あと、私はネガティブに考えないたちなので、「女に生まれてラッキー!」つて思ってるんです。私は女だから、バイリンガルだ。法律というまさに国家・男の発想も知っているし、女として物の見方もできる。こっちから見るとこういう問題提起もできるよ」という提案ができるでしょう。

尹:それはかなり、日本の歴史や国家社会に対するご自分なりの理解があるからですよ。

福島:私は、システムというのは人間が作ったものだから、そのシステムが人間に合わなければ、変えればいいと思っているんです。それと、まわりに一緒にやる仲間たちがいる。女姓の弁護士や、市民運動をやる人たちや、メディアの人や学者や……。別姓選択制についていえば、十数年前に「おかしいね」ってみんなで言っていた。戸籍名は変わったけど、社会では通称名を使ってる女性がまわりに大勢いて、みんなすごく苦労していたんです。それで法制度自身を変えようよつて、みんなで始めたんです。

尹:在日の場合は、そこが難しいんです。まずみんな、自分一人で悩む。助けてくれる人がいればいいけど、日本の学校教育を受けていると、日本社会のマジョリティのアイデンティティを植えつけられるわけです。それに対抗しうるだけの自信を持てればいいけど、持てない場合、基本的にはマイノリティですから、マジョリティに同化してしまうか、皆と同じふりをせざるえない。だから誰かがちゃんと手助けして、「君はコリアンなんだよ、こういう歴史的経緯があるんだよ」と教えなければいけないんです。マイノリティ、つまり弱者の歴史的意味、社会構造における位置づけなどについて、納得いくようきちんと助言を与える人がいればいいんですが、それが難しい。


日本に潜む
強固な「国体護持」

福島:最近、エンバワーメントとディスエンバワーメントということについて考えているんです。国連女性開発基金代表のイリー・ヘイサーさんが、エンバワーメントの定義としてまず第一に「自分自身の価値を認める権利」、二番目に「選択する権利」をあげている。定義は五番目まであるんですけど、在日朝鮮・韓国人の場合、この一番目がなかなか持てない社会状況がある。
つまりディスエンバワーメントされているわけですよね。自分って何者だろうと悩む中で、「自分が大事」という部分の確信が持ちにくい。

尹:先ほど、生まれるということは運命的だと言いましたけれど、在日として生まれてくるのは別に自分で選択したことではないわけです。自分が選んだことではないのに、「おまえは朝鮮人だ」と差別されるのはとても辛いし理不尽です。でもそういう差別は、社会や歴史が作ってきためだということが分かれは、強くなるんですよ。だから私は、マイノリティや弱者は、認識をし、自覚をすれば、ものすごく強いし、力を発揮でき漆と思っている。そういう教育ができるか運動ができるかが、我々の仕事だと思っています。

福島:ここのところ、夫婦別姓選択と婚外子差別撤廃の件で、反対派の人たちも含めているいるな人たちと会って議論を続けてきたんです。それで実感したのは、日本は「選択」という概念が薄いんですね。

人権とは本来、「違いはあるが差別はされない」ということなのに、それが分かっていない。少数者は多数に従えという社会なんです。私は、夫婦同姓の人がいても別姓の人がいてもいい、両者が浸食しあう関係ではなく、共存しうるのがいいと思っているのに、選ぶことすら許容しない。

反対する人たちの気持ちの中には、「自分と違う人がいるのは気持ち悪い」「自分と違うのは許せない」という本音があるんです。みんな一緒のふりをしなきゃいけない社会なんですね。それと夫縁別姓選択制を反対している人たちは、夫婦別姓になると家族が崩壊すると言う。その中に「国体護持」という言葉が出てくる。

戦後補償に取り組んでいても感じるんですけど、日本は一見豊かで自由な感じがあるけど、根幹に「国体護持」という堅い部分があって、何か変革を考えた時、必ずそことぶつかるんですね。女性誌などで、「夫婦別姓もありますよ」とか、「ゲイもありますよ」とか表面的に表現するのは許すけど、法制度を変えようとすると、そのとたんにビッと刃が出て、絶対に許さない。「右翼・保守仲良しの輪」みたいな動きが物の見事に作動して、自治体から夫婦別姓選択反対の嘆願書とかが出る。あっ、日本社会の本質はここなんだなと、実感したわけです。でも私は、こういうことがあって初めて「国体護持」について認識した。甘いんです。在日朝鮮・韓国人の人たちは、生まれた時からこれに日々ぶつかってきたわけですよね。

尹:これは韓国に住んでいる韓国人も同じかもしれないけど、ひとつの国民国家の枠組みの中でマジョリティを形成している人たちのアイデンティティというのは、与えられたものではあるけど、実態は曖昧なんです。国体護持とおっしゃいましたが、一般の人たちが意識して国体護持を考えているかというと、全然思っていない。

第一、日本国憲法の第一条は「天皇は、日本国の象徴であり…」と、天皇で始まっていますが、その天皇について学校で教えていない。教師も分かっていないんです。だから本当は知らない、分からないはずなのに、ある危機的状況が現れると、突然バッと体制的気質が沸いてくる。つまり曖昧な形で、みんななんとなく国民意識というか、幻想の共同体意識を持っている。

そういう意味では在日は、日々そういうものにぶち当たるわけです。だから最初に福島さんにお尋ねしたのは、曖昧な意識を持ったまま、そのままルートに乗ってすっとマジョリティの一員として生きていけるのに、なぜこんなシンドイことをなさるのか、ということなんです。

福島:私、全然シンドイなんて思っていませんよ(笑)。

尹:楽しいと思えるのなら、なおさら素晴らしいことですよ。

福島:私は人のために何かをやっているつもりはないんです。自分がいろいろな「らしさ」を脱ぎ捨てていく過程が、すごく気持ちよかった。私は婚姻届けを出さないで子供を産みましたけど、始めは「私も未婚の母になった」とか、「子供にハンディキャップを設けるのはいいのかなぁ」と思ったりもしたんです。でもやってみたら、思ってたより簡単。「なんだ、どんなスタイルだっていいんだ」つて実感できた。始めは少し怖くても、脱ぎ捨てていくと、とても気持ちちがいい。

尹:私の場合は、自分がまだ確立されていない時期には、たとえば部落差別の問題などを聞くのが嫌だった。そういうことに関心を持ったり、一緒に何かをやるということに、なにか抵抗があった。でも今は部落差別の問題やアイヌの問題、アイルランドの問題にもすっと入っていけるようになった。つまりひとつの問題を突き詰めでいくと社会や歴史のさまざまな矛盾や問題は底の部分で繋がっていることがわかってくる。だからこうやって、畑違いの福島さんとも話をすることができるわけですよね。

福島:部落差別撤廃にかかわっている人たちの話をすると、彼らは戸籍の「本籍」の部分にこだわっている。でも女性差別の立場からすると、「戸籍筆頭者っておかしくない?」とか、「どうして婚外子は男女って記載されるわけ?」という視点がある。だから多角的に議論することで、一緒にできることが見つかってくる。本籍のことを言われれぱ、「そうだ、私たちも本籍の問題を忘れないでいよう」と思う。だから、「あなたは甘い」とか「知らない」とか言い合うより、「こういうことで連携できるね」どいう話を大いにすべきだとおもいます。多角的に見ることで、たとえば戸籍制度そのものが差別の根源だということに気がついてくる。外国人も排除しているんだと、目が開かれるわけですから。




市民レベルでの
連帯をどう作るか

尹:戦後補償、従軍慰安婦の問題について、今、国家補償が争点となって論じられていますね。なぜ日本は、過去の精算ができないのか。先ほども言いましたように、日本には曖昧な国家幻想の中での、ある秩序がある。また日本は社会が企業別になっていて、その秩序の中ではそういうことが論議しにくい。ただそれを、「日本的」とだけ言うのは間違いだと思うんです。

在日だって在日の秩序があり、中身はともあれ、あり方としては似てるかもしれない。今までは在日は在日の特殊性があり、日本は日本の特殊性があるという図式の中で批判をし合ってきましたが、それだけでは問題は解決しにくいんです。

福島:沖縄の女性たちと親しくしているんですけど、彼女たちは十年以上も「うないフェスティバル」というのをやっていて、基地がある中での女性の人権について、問い続けているんです。彼女たちが1995年の北京会議に出席して、NGOフォーラムを十個ほどやったんですけど、その北京会議のさなかに沖縄の女性暴力の事件があった。その問題で何人かでチームを組んでアメリカに行ったんですけど、私が尊敬するのは、対アメリカという構造にせずに、アメリカの一般市民たちときちんと話をしようというスタンスをとったことなんです。もちろん日米安保条約があるから国家の問題ではあるんだけど、アメリカの市民と話をしようとした。これは大切なことだと思うんです。 戦後補償も、もちろん国家と国家の間の問題だし、政治的な問題ですけど「市民と市民の連帯もないといけないんじゃないかと思うんです。

尹:日本という国は、意識空間という意味ではあまりにも大きく、経済的にも「豊か」になってきたから、何を目標に社会を考えていけばいいか分かりにくくなっています。戦後補償の問題も、一部の日本人は自らの良心と責任にかかわる問題であると捉え、一生懸命運動していますが、それはあくまで少数派です。現実にはそれを遥かに凌駕する形で、企業倫理や、消費生活が人びとの内面を支配し、また氾濫する情報が自分自身を見失わせています。戦後補償の運動をしている人の多くは国家補償をすべきだと言っていますけれど、私が心配なのは、現時点において日本いう国のマジョリティは、暗黙のうちに曖昧な国家意識を強く持っているということです。制度の中や日常生活の中に埋没していて、本人も意識をしない形での曖昧な国家意識がはびこり、自覚をもない保守性がある。それが多数派を占めてい中で、問題の本質が忘れ去られて、国家補償という形で国家だけに尻拭いをさせてしまうことになりはしないかと。つまり国家意識の分厚い壁が厳然としてあるなかで、国家責任だけを協調しすぎると、市民レベルで自分たちの責任を認識するということが希薄になりはしないのか。十年、二十年過ぎてみたら、日本国政府はこう言って、良心的な一部の人たちはこう言って、しかも大多数の一般人は何も考えなかった。結局トータルとして誰も何もしなかった。それでオバアチャンたちはみんな死んでいった……そうなりはしないかと危惧しているんです。先年批准された子どもの権利条約でいいますと、条約が批准される前はものすごく議論されましたよね。在日に則していうと、この条約が批准されないから民族学校が学校として認められないのだとか、在日の子供たちが権利を享受できないでいるとか。ところが実際に批准さかてみると、たちまちのうちに既定事実となり、かつて議論された多くのことがすでに過去の問題となってしまう。批准の前と後で民族教育が一貫して認められていないというのに、今ではもう議論されることすらない。人種差別撤廃条約だって批准した。でもやっぱり実態は何も変わっていない。だから私は、戦後補償の件でも、危惧をしているんです。

福島:確かに女性差別撤廃条約も批准しているけど、現実は変わってませんね。でもそれは、主体になる人間たちが「変えよう」と言い続けて、動き続けるしかないですよね。ただ少し心配なのは、もしかすると私たちは「差別がおかしい」と言う最後の世代になるかもしれないということです。もう少し下の人たちになると、「差別って何?」と言う人たちも増えるかもしれない。

尹:今や日本社会も豊かになって、在日も昔みたいに食べるものにも事欠き、服もボロボロなんてことはないわけです。少なくとも、食べていくことくらいは誰でもできる。実業家として成功したり、学者や弁護士として活動している人もいる。そういう意味では、誤解を恐れずにいうと、絶対的差別はないという言い方もできるんです。そうなると、たとえば在日で最初に弁護士になった人は大変だっただろうし、希少価値もあったし、問題意識もあって社会運動にも参加したけど、どんどん増えてくるとシステム化されてきく「在日」の弁護士なのか一般の単なる弁護士なのか分からなくなっていく。在日の権利獲得のために闘う弁護士だけではなくなってくるわけです。そういう時代になって、何が大切かというと、やはり内面です。どう自分のアイデンティティを再構成していくか、ということですね。

福島:それと、差別が巧妙になっていくところつてありますでしょう。

尹:日本の企業も、昔は就職試験の応募すらできなかったけど、今は企業はそんなことを言わない。「どうぞどうぞ、うちは国際化してますから」と言う。それで「試験の結果が…」と言って落とす。

福島:女性と同じね。受験だけはさせるという……。だからよっぽど目を見開いていないといけない。在日の問題で言えば、今の若い子たちは在日朝鮮・韓国人がなぜ日本にいるかという教育を受けていないから、何も分かっていない。おじいさんやおばあさんたちの方が、「なぜいるか」ということに関しては、まだ分かっている。それで分かっていないのに、なんとなく差別がある。

尹:しかも思いことに、自分が差別していることに気づいていない。

福島:在日の人が不動産屋に行った時、どういう扱いを受けるか。そういうことも、本当はみんなが知って、みんなが「おかしい」と言っていかなければいけないことでしょう。女性差別でいえば、伝統とか慣習とか文化とか日常生活のあらゆる面に根を下ろしているから、そのひとつひとつに疑問を持って指摘するのは重要なことなんですでも本当に重要なのは、もう少し大きたことだということも忘れてはいけないですね。たとえば在日の場合は、明らかに法律として国籍条項があるわけですかち戸今の時代、疑問を持つ姿勢をいかにしたら保ちうるのか。それが大きな問題ですね。

福島:それと、エンパワーメントの定義である、自分をかけがいのない存在だと思い法律や制度や社会や慣習ではなく、白分で自分のことを大事にし、内面を大切にするということ。

尹:でもこの日本でそれを掴むのは、とても難しいかもしれませんね。

福島:きっと自分がこだわった事柄に対して、ごまかさずに、とことんこだわることがいいのかもしれない。

尹:それは確かに大事だと思います。自分をいつも見つめ直しつつ、そうしたきっかけにめぐり会わない人たちを、どう巻き込んでいくか。それが今後の課題だと思います。

(1996)

 


 

尹健次(ゆん・こんちゃ)
1944年京都生まれ。東京大学博士課程終了。現在、神奈川大学教授。専門は近代日朝関係史・思想史。善書に「孤絶の歴史意識」『「在日」を生きるとは』『民族幻想の陸路』『きみたちと朝鮮」など

福島瑞穂(ふくしま・みずほ)
1955年宮崎生まれ。東京大学法学部卒業後、87年より弁護士開業。アジアからの出稼ぎ女性の緊急避難所「女性の家HELP」顧問弁護士を勤めている。著書に「楽しくやろう夫婦別姓−これからの結婚必携」(共著)「ラブチャイルド−婚外子差別を越えて」(編著)「結婚はバクチである」など多数。


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