「在日」問題の現在

1952年佐賀県生まれ。現在、駒澤大学経済学部教授。
主な著書に『現代韓国への視点』(共著、大月書店)、
『近現代史のなかの日本と朝鮮』(共著、東京書籍、1991年)、
『開発とグローバリゼーション』(共著、柏書房、2000年)など。
鄭 章淵(ちょん・じゃんよん)



 歴史的段階としての現代を「ポスト冷戦時代」と呼ぶ習わしがすっかり定着した感があるが、その具体的な指標となると必ずしも明確ではない。新時代の呼称は、あくまでも冷戦時代の相対概念として使用されているに過ぎないのである。今のところ確認できる事実は、冷戦の終焉が社会主義世界体制の崩壊を伴ったことであるが、祖国の分断体制に深く刻印された在日社会に生きる者としては、「歴史の終焉」といった精算主義的な歴史観で自らの運命を語られることに強い抵抗を覚えざるを得ない。激変する情勢に翻弄されがちな在日朝鮮人に対して、この新時代はいかなる未来を約束するのだろうか。未だ方向性の定まらない世紀末のメガ・トレンドを模索することは性急のそしりを免れないが、それでもなお、明らかにこれまでとは異なる新しい歴史段階が人類の眼前に開闢し、その発展段階が在口社会の在り方をも究極的に規定づけるとするならば、われわれは現段階の洞察に臆することなく挑戦しなければなるまい。

混沌とした過渡期の只中にある世界情勢の特徴として、何よりもまず指摘しなければならない事がらは、民族紛争の激化と経済問題の世界的イッシュー化である。前者は、中東パレスティナ問題に代表される発展途上国の民族対立や先進国のマイノリティ問題など従来の民族問題に加え、ロシアや旧ユーゴに見られる社会主義国家の崩壊に伴う民族独立紛争問題など、混迷の極みに達している。後者に関しては、ポスト冷戦時代の到来とともにそれまで軍事的対峙の陰に隠れていた経済問題が顕在化し、さらに旧社会主義国の市場経済への移行や中国などアジア社会主義国の改革・開放路線への転換によって、文字通り世界的な規模で市場経済が成立するに至っている。すなわち、国民経済をはるかに超越する生産力の発展が国民国家の領域と齟齬を来たし、その枠組みの内外において民族主義を刺激する構図となっているのである。こうした文脈から、経済問題のより深い考察が求められる。



今日の世界経済は、ひと言で言ってグローバリズムへ世界主義)とリージョナリズム(地域主義)が激しく衝突する様相を呈している。先のリヨン・サミットでも「経済のグローバル化」が言及されたように、世界経済はますます一体化・同時化を遂げつつある。それは単なる世界経済の量的な拡大ではなく、経済がひとつの単位として地球的規模でリアルタイムに動く構造が形成された質的な変化を示している。EU(欧州連合)、NAFTAへ北米自由貿易協定)、それにAPEC(アジア・太平洋経済協力会議)に代表される地域主義の動向は、経済の世界化と一見あい対立する現象のように思えるが、リージョナリズム自体は、相互依存関係の深い近隣諸国同士が当面地域協力を行うという趣旨から生まれたもので、最終的にはグローバル化の促進と矛盾するものではない。

こうした経済現象の背後に、国際分業のフレクシブルなネットワーク化や交通・通信網の著しい発達を可能とした情報技術革命があることは言うまでもない。情報化社会の到米が新しい世界経済の発展段階を産み出した点に着目するならば、今日の世界システムは、まさに「世界情報資本主義システム」と呼ぶことができるだろう。現在、世界経済の中でもっともダイナミックな地殻変動が起っているのは、他ならぬ在日社会を含む東アジア地域である。「貧困の悪循環」が代名詞であった昔日のアジアを知る者にとって、「世界の成長センター」、「東アジアの奇跡」など経済の躍進ぶりを礼讃するレトリックに事欠かない今日の東アジアの姿は隔世の感がする。同地城の発展の特徴は、これまでよく国単位の工業化ヒエラルキーとして「雁行型」と表されることが多かったが、実態的には先進国の多国籍企業やNIES企業の国際的展開が都市や地域を情報・生産ネットワークで相互に結びつけているところにある。

 その結果形成された日本-アジアNIES-ASEANの生産枢軸が旋回軸となって中国など周辺諸国を工業化の渦に巻き込み、この地に一大広域経済圏を浮上させている。このように今日の東アジア社会が専ら経済原理で律せられるとするならば、そこには「バックス・エコノミカ」の成立、「経済による平和」の到来を看取できよう。



 バックス・エコノミカ時代の到来は、在日社会にとっていかなる意味を有しているのだろうか。在日社会が東アジア社会の一構成部分である以上、同地城の構造的変化から無緑ではいられない。目下、日本社会の国際化という形で済し崩し的に進みつつある日本とアジアとの再融合化は、在日朝鮮人をして歴史的な脈絡からの自己確認を求めさせずにはおかないだろう。

 このような脈絡から、われわれの「現住所」を確認する際、まず爼上に乗せられるべき作業は、在日社会を直接的に包摂する日本社会の変容、とりわけその変容を根底から規定する経済構造の分析である。

この間の日本経済の変容を考察する際のキイ・ワードは、「ME革命」と「グローバライゼーション」である。70年代後半から始まった日本のME革命すなわちマイクロエレクトロニクスの応用による技術革新は、あらゆる産業分野の情報化・コンピュータ化となって波及し、従来の経済的・社会的システムを根底から変える推進力となった。そして80年代に入り、それが生産技術の飛躍的な発展となって結実し、世界に冠たる日本的生産システムを創りあげた。

またグローバライゼーションとは、机年代の世界経済において一段と進展した金融・投資の自由化を背景に、紙年の「プラザ合意」(G5によるドル高是正)を契機とした急激な円高が日本資本のグローバルな展開を推し進めたことを示している。あのバブル最盛期にジャパン・マネーへもっとも短期借り、長期貸しの「又貸し」に過ぎなかっぎなかったが)による海外不動産の買いあさりが狷獗を極めたことは、まだ記憶に新しいところである。

上記の2つのキイ・ワードを在日社会に及ぼした影響として捉え直してみると、ME革命とグローバライゼーションは、それぞれ「高度情報化」と「アジア化」と言い換えることができる。そのニつの影響は、在日朝鮮人に新しいビジネスチャンスや就業機会を提供している。昨今、長引く不況の打開策として情報産業分野を中心とするベンチャー・ビジネスの育成やアジアとの経済交流が声高に叫ばれているが、そうした「起業家」の隊列に、特に北東アジア情勢の好転次第では在日朝鮮人も加われる可能性が出てきた。

また、高度情報化時代の到来はサイバースベースへ電脳空間)における専門・技術職の需要を産み出しているが、今のところ、この種のスペシャリストは人種や国籍にかかわらず希少価値があり、労働市場では売手市場の状況にある。地方自治体の経営情報専門職における雇用ケースは、そうした一例である。

また、日本社会とアジアとの関係が深まった結果、在日の大学教員が誕生したり、地方自治体の「国際局」などで在日の雇用例が見られるようにもなった。ただ、これらの雇用機会は極めて専門性の高い職種か、あるいは特需的な色彩の濃い一種であり、就職差別問題の根本的解消につながるものではない。むしろ、在日社会が日本の労働市場の変化に即応できる一部の層と、そこから排除される労働市場にミスマッチな大多数の層とに峻別され、その意味では雇用問題のいっそうの深刻化が懸念される。

 アジア化がもたらすその他の影響としては、日本経済の国際化に伴う「産業の空洞化」と、いわゆる「ニューカマー」へ本国人を含む外国人労働者)の問題が考えられる。日本の空洞化問題は、80年代後半以降、日本企業の海外進出ラッシュによって深刻化し始め、バブル崩壊後の不況期には下請企業の倒産や雇用の空洞化となって現われている。周知のように、在日企業の多くは、日本企業の下請や再下請下にあるか、独立企業であってもその大半が零細経営であるため、産業の空洞化から受ける影響は甚大なものと推測される。

 そのうえ、市場では、国内外の競争者ばかりでなく、同業者の本国企業や兄弟労働者との競合も加わる。またニューカマー問題に関しては、在日朝鮮人労働者と外国人労働者との間で雇用機会をめぐって摩擦が生じたり、外国人労働者と在日朝鮮人経営者との間に労資関係が成立し、労資間の摩擦まで起こり得る蓋然性が出てきた。今や、在日朝鮮人といえども、いつ何時抑圧される側から抑圧する側へ立場が転落するやも知れない状況にあるのである。



 こうした在日社会の位相変化は、朝鮮半島を含むアジアとの位置関係の再確認をわれわれに求めるものとなっている。ところが、最近の若い世代の「在日論」は、いわゆる「本国志向的」な既存の組織運動に対する不満や違和感のためか、日本社会を所与の前提とした静態的な議論が多い。新時代の到来により在日の視座が大きく揺らぐ中で、祖国との関係を再定義すべき時期が来ているのではないだろうか。その際まず問題となるのは、在日朝鮮人の祖国への関わり方、すなわち民族的アイデンティティの問題である。

 最近、民族問題に対する世界の眼差しは、民族浄化というあのナチズムを街沸とさせる否定的民族主義のせいもあって、かつてなく厳しさを増している。そうした雰囲気は、言われて久しい在日社会のアイデンティティ・クライシスに決定的な一撃を加えそうである。そのため、在日社会の新しい統合理念として民族ではなく「市民」に着目する論者も出現しているが、その主義の特徴は市民と民族の関係が曖昧であったり、在日問題から民族的要素を希釈化するため、民族・エスニシティ問題という在日問題の本質を事実上捨象してしまう傾向が見られる。こうした在日論の現状は、在日の思想をバックス・エコノミ力時代の到来という新たな座標軸において発展させることを求めている。その発展の方向性を模索して、この小論の一応の結びとしよう。

 前述のように、バックス・エコノミカの原動力は経済のグローバリスムにある。その経済のグローバル化の推進者は多国籍企業に他ならない。多国籍企業は、その名の通りトランスナショナルに活動するが、その活動自体がナショナルな枠組みを解消し、直ちにボーダレスな空間を造り出すのではない。それは、貿易や投資の自由化を推し進めはしる、現実には、為替レート、労働条件、環境保護基準の格差など、国境の存在を前提とした国際経営戦略を展開しているのである。そのため、特にアジアにおけるリージョナリズムに典型的に見られるように、そこで示される国際連帯とは往々にして政府・資本間の言わば「上からの連帯」のケースが多く、労働者をはじめとする国民レベルの草の根連帯は国境に阻まれて遅れがちになる。このように、経済が主導する「平和」とは、資本家と労働者、商品生産者と非生産者、情報独占者と非独占者などの格差や対照といった矛盾を不断に再生産する極めて不平等な平和であり、要するに、多国籍企業目らが「超国家的資本階級」を形成し、世界の頂点に君臨して初めて成立する平和なのである。

 それに対抗できる運動主体としては、最近の社会運動において社会主義的な労働組合運動が低調なことから、国境を越えた地方自治体や民間交流による「ローカリズム」、「地域主義」に結集する市民の民主化運動、それに「トランスナショナル・シビル・ソサイェティ」の形成に込められた市民運動の国際連帯などに期待が高まっている。このような社会運動の奔流と在日運動の現状とは、どのように関連づけられるのだろうか。参政権運動に代表される最近の運動は確かに市民的権利の獲得を目指したものであるが、運動を展開する際の主体的な契機は、あくまでも「民族的なるもの」である。この視点を欠落させたまま、国民国家を相対化し、地域社会における日本人との共生を訴えるならば、そのような在日論にとっての「想像の共同体」とは他ならぬ日本国家であったというアイロニカルな結末を迎えかねないだろう。

 無論、民族的価値のみを強調することは、国家や民族などあらゆる20世紀的価値が問い質されている現状において最早有効ではなく、ややもすると主観主義や排他的な民族主義に陥る危険性がある。民族的価値は、全人類的価値、普遍的価値と常に相互点検され、より高次元なものに発展させられなければならないのである。同様な構図は統一問題にも見られる。祖国の統一は、確かに朝鮮民族のネイション・ビルディングへ国民国家形成)の課題であり、その意味ではナショナルな性格を有するが、事実上、半世紀の永きにわたり朝鮮半島に二つの、しかも体制の異なる国家が存在してきたことから、統一実現のためには国民国家の枠組みを超えた発想が求められている。特に、朝鮮半島の外部から統一問題にアンガージュしなければならない在日朝鮮人にとって、そうした柔軟な発想は不可欠である。そ・つすることによって初めて、われわれの民族的アイデンティティは、「アジア共同体」、ひいては「地球市民」へと展望が拓けるのではないだろうか。各国民の相互依存関係が抜き差しならない程に深まったバックス・エコノミ力時代を迎えて、在日の思想は今こそ発展の時期を迎えているのである。

 

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