小中学校は日本の学校で過ごしたが、中学一年の一学期に、朝鮮学校に編入した。
「西今里中学で教師をしていた姉の影響で、そこに転入したんです。教師は在日と日本の先生と両方でしたが、生徒はみんな在日でした」 帰国署名運動が盛んに展開した時期でもある。 中学三年の時に、中大阪朝鮮小中級学校と名前が変わり、完全な民族教育が始まった。そんな中で、サッカー一筋だった玄少年が興味を待ったのが音楽だった。 「姉の結婚相手、つまり義兄が音楽教師をしていまして、その影響を受けて、ブラスバンドを始めたんです。中学、高校とずっとブラスハンドに夢中でした。一時は、音大に行きたいと思ってピアノを習ったりもしたんですよ」 しかし大学に行く段になって彼が選んだのは、"音楽"ではなく"化学"だった。 「実兄が有機化学を研究していたことに影響を受けたということもあるんですが、もともと化学が好きだったんです。小学校の頃、理科クラブに入ってまして、いろいろ作ったことを覚えています。ゲルマニウムラジオから始まって、真空管ラジオを作ってみたり。とにかく自分で物を作るということに、ものすごく興味がありましたね」 高校を卒業後、朝鮮大学の理学部化学科に進むことになる。
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「在学中は、何千人もの生徒が参加して行われる集団体操であるとか、何百人で踊る舞踊公演なんかが熱心に行われていましたね。でも私は、暑い中、行進したりするのが苦手だったし、ブラスバンドが得意だったもので、ひたすらラッパを吹いていました。そんな感じで、あっという間に4年間過ぎてしまいました」
大学を卒業するにあたって、進路指導の教授に"もっと勉強したい"と申し出て、「京都大学研究所」に研究生として入り、高分子化学の基礎研究を始める。今年の2月に他界した李昇基博士が、世界で初めてビニロンを開発したという伝統ある研究室だ。 その研究室で研究を重ねた結果、1978年に京大から工学博士の称号を受けた。もちろん、工学博士の地位を受けるのも、朝鮮大学卒業生としては初めてのことだった。 博士の称号を受けたことで、日本学術振興会の奨励研究員として、2年間の基礎研究期間を与えられた。しかし、すべてが順調だったわけではない。教授から大手企業へ就職の話があり、企業に履歴書を送ったが、書類選考で落ちてしまったという苦い経験がある。 「在日であると同時に、朝鮮大学卒業生であるというハンディがあったからでしょうか。何のために勉強してきたのかと、非常に憤慨しました。将来が見えなくて、非常に暗くなったんですが、今更、研究をやめて他のことをやるわけにはいかなかった。それで、研究してきたことを生かすために、応用研究をしようと思ったんです」 まさに、このときの怒りや屈辱感こそが、彼の原動力になっているのだ。その後、研究を重ねる過程で、京都大学が、現在の「生体医療工学研究センター」の前身である「医用高分子研究センター」という新しいセンターを作った。従来みたいに半永続的に続けるのではなく、成果がなければ潰し、また新しいものを作るという、いわゆる時代のニーズに応じた研究を行うための研究所である。 |
「例えば人工臓器とか、体に使う材料を研究するのが医用高分子でして、金属やセラミックスなどの固いものから、我々の研究している有機高分子などの柔らかいものまで、いろいろあるんです。1980年から、高分子化学の基礎を生かす応用研究として、人工臓器に関する研発を始めたんですが、もう的年になります」
その長い研究が認められて、昨年10月、助教授に、という話が舞い込んだ。しかし当時、彼は大学で非常勤講師として勤務する傍ら、自らが設立した会社の運営を手掛けていたため、その選択でかなり悩んだという。 「研究を続けてきても、日本の企業に入れないというジレンマがありましたので、せっかくやってきたことを生かして研究の場を作りたいというのが、私流の男のロマンだったんです。基礎研究をして、応用研究をして、更に企業化した、ということです。企業と言いましても、いわゆるベンチャー企業ですから、新しいものを開発していくという意味では、大学の研究と同じなんです」 |
「BMG(バイオマテリアルズ・ゲン)」という、生体材料を作る会社だが、10年前に作ったその会社がようやく軌道に乗り、新社屋が完成した昨年の10月に、同時に助教授の話が舞い込んだのだ。
「国家公務員法というのがありまして、公務員はプライベート企業の経営にかかわることができないんです。さすがに悩みましたね」 そして、いろいろな人に相談し、悩みに悩んだ結果、企業の経営は兄任せ、助教授のポストを引き受けることにした。 「京都大学で、在日であり、朝鮮大学卒業生である人間が助教授に着くのは初めてのケースということで、小さい力なりにも自分が歴史の門を開くというのは、大きな意義があるのではないかと思いました」 研究を続けるのは、自分だけの問題ではない。民族のためであり、在日のためであると、彼は言う。 京都大学のような歴史の古い国立大学に、いわゆる日本の学歴のない者が助教授として入るのは難しい。 「私が助教授というポストにつけたのは、学歴ではなく、業績を生んだ結果でしょう。私はその権利を、自分で勝ち取ったと思っています。誰も恵んではくれませんから。私が、後輩の在日コリアンたちにひとつアドバイスできるとしたら、それは、研究でも何でもそうですが、地道にコツコツ続けるというつこと。"継続は力なり”です。そうすれば、必ずいいことがありますから。自分の権利は、自分で勝ち取るべきです」 ”権利は自分で勝ち取るもの” 力強い言葉だ。長い研究生活を経て、夢を獲得した彼が言う言葉だからこそ、胸に響いてくるひとことだ。 力強い魂を持った彼の、同胞への思いは人一倍強い。在日が自分の力を発揮できる場を、各地に作ることができれば、と願っている。 「在日が自分の技術を発揮する場がないというのは悲しいことですから、微力ながらも、そういう場を作っていければいいですね」 新しいものを生み出すというのは力のいることだが、夢のある作業でもある。小学校の時ラジオを作った少年の心は、いつまでたっても色褪せることがない。自分が何かを作るという夢。そしてさらに、多くの後輩たちが力を発揮する場所を作りたいという夢。自分だけの夢が、今度は在日同胞たちへのさらに大きく豊かな夢へと羽ぱたこうとしている。 「国がふたつに分かれてお互いにいがみ合っているというのは悲しいことです。戦後50年も迎えましたし、そろそろひとつにまとまらなければならない。そのためにも、我々在日が、祖国の冷戦をなくすよう、38度線をなくすよう、ひとつになって、若い力を持って影響を与えていかなければと思います」 彼のワンコリアへのメッセージでもある。 |
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