2002年W杯
共同開催インタビュー
金田喜稔(かねだ・のぶとし)

1958年広島生まれ。中学生の頃よりサッカーをはじめる。広島県立工業高校時代は全国選手権大会ベスト4。中央大学2年生の時に日本代表に選ばれる。1980年、日産自動車サッカー部に入部。
「988年も89年に国内タイトルフ冠獲得。日本代表として82スベインワールド大会予選、即年モスクワ、84年ロサンゼルス両オリンピック予選なとに出場。現在はテレビ、ラジオなとで解説者として活躍。また少年少女たちのサッカー育成にも力を注いでいる。

玄新哲(ひょん・しんちょる)

1973年大阪生まれ。大阪朝鮮高校サッカー部に所属。近畿大学ではサッカー部所属。現在ヴェルディー川崎所属。


最近はJリーグの解説者として人気の高い金田喜稔さん。現役選手時代は、日本代表として82年スペインワールドカップ大会予選、80年、84年とオリンピック予選に出場するなど、サッカー界の第一人者として華々しい活躍ぶりを見せてくれた。それだけに、2002年のW杯共同開催には、大きな夢と期待を持っている。

「ワールドカップというのは、世界中の人たちに対するプレゼントなんです。ある意味では、オリンピックより大きなスポーツの祭典ですから。4年に一度のワールドカッブを見るために、4年間、生活費を削ってコツコツお金を溜めている方々というのは、世界中に大勢いるんです」

なんと国連加盟国数より、FIFA(国際サッカー連盟)加盟国の数の方が多いそうだ。ワールドカップの決勝戦の2時間は、少なく見積もっても、全世界10億の人たちがテレビで試合を見る。テレビの衛星中継の回線が思うように引けないアフリカの国の中には、オリンピック中継は諦めるけどワールドカップだけはなんとか……と願う国もある。それだけサッカーは、全世界的な競技なのである。

「だから、共催は果たしてうまくしくのか、などと言ってる場合じゃないんですよ。世界のお客様のために、日韓で協力して何が何でも最高のワールドカップを提供するんだという意識がベースにないとだめなんです。そのためには、サッカーに携わっている人間どうしが日韓で協力するのはもちろん、芸術や音楽やあらゆる分野の人たちが手を携えて、6年間で盛り上げていかなければいけないと思います」

手をつなぐ雰囲気を盛り上げるために、今すぐみんなが動き始めなければいけないと金田さんは言う。だが日本の体質からすると、マスコミも含め、共催が決まった瞬間だけ話題が盛り上がり、あとは直前の1年前になるまで忘れてしまう……となるのではないか。それが今、金田さんが一番危惧していることだ。

「とにかくサッカーが他の分野を巻き込んで、6年間継続して日韓がともにいい刺激を与えあい、手を携えられる環境を作らなければいけない。共催は素晴らしいんだという気持ちを、そうやって盛り上げなければ……」

そのための一つの方法として、金田さんは子供たちの日韓交流に期待を持っている。それというのも、金田さんは子供たちのサッカーチームを作り、アメリカのサンディエゴで開かれる大会に連れていくという活動を通して、子供たちの素直な感性に日々触れているからだ。

「子供の感性には、僕らも学ぶものがありますね。言葉が通じないのに、彼らは彼らなりにアメリカのf供たちと仲良くなる。勝っても負けても相手を褒めたたえ、終われば挨拶と握手をし、プレゼントを交換をする。勝ったチームがみんなでトンネルを作って、そこを負けたチームの子供たちがぐっていく。自然とそういうことをするんです。見ていて素晴らしいなあと思いますね。でも、なんでわざわざ遠いアメリカまで行って、隣の韓国とこれができないんだろうつて思います。だから2002年が決まったことをきっかけに、まず子供たちの交流が始まればいいと思いますね」

韓国から少年サッカーの選手団を招き、日本のチームと試合をする。そこに両国の親たちも集まれば、大きな輪が生まれるではないか。

「フットサルの試合なら、スペースもそれほどいらないし、誰でも身近にできますから、フットサルの試合を中心にして楽しい祭りにすればいいじゃないですか。それでコートのまわりに、両国の料理の屋台とかを出すんです。お好み焼きやおでんの屋台があるかと思えば、チヂムの屋台がある。みんなで焼き肉パーティをやったり。それからミュージシャンを呼んで試合後にコンサートをやったり、芝は小屋を作って試合の後に芝居を上演したり。そんな祭りが半年に一度ずつ、韓国と日本であったら楽しいじゃないですか。その気になれば、僕らと同世代の韓国の選手たちは、みんな協力してくれますよ。そういった草の根からまず盛り上がりをスタートさせたいし、そのためにはまず僕らサッカー界の人間が動かなければと思います」

もちろんスポーツとはいえ、大きな大会となれば、政治的なかけひきがあることは当然である。しかしやはり、現場の人間が体をぶつけあい、汗を流して何かをやることが大事だし、そこからまず始めたいと金田さんは思っている。

「それから草の根の動きを成功させるために、ぜひ在日コリアンの方々に協力していただきたいと思っているんです」

在日コリアンなら、韓国と日本の両方が分かる。両国の接着剤役もできる。だからこそ、2002年に向けての草の根運動に、在日の力が不可欠だ。在日コリアンへの、金田さんの期待は大きい。

日韓共同開催が決まった時、多くの人たちは「自韓には微妙な問題があるから」と、ネガティブな発言をした。しかしその点に関しても、金田さんはあくまで前向きだ。

「僕は韓国の選手たちとは、本当に仲がいいんです。グランドを離れても仲がいい。サッカーをずっとやってきた人間どうしでは、わだかまりはないんです。何か一つのことを一緒にやると、やっぱり互いに分かちあえるんですよ。だから2002年は、ある意味ではみんながおりいの感情や国民性を身近に感じ、分かりあえるようになるチャンスだと思うんです」

歴史の経緯の中で、日韓にいろいろな問題があるのは事実だ。しかしそれも含めて、一つのことを一緒にやりとげることで、お互いに「感じあえる」ようになるはずだ。何を痛み、何を喜び、何に憤り、何を夢見るか。互いに触れあい、ぶつ力りあうことで、互いを理解することができるはずである。しかもそういった理解は、早く進めば進むほうがいい。

「いずれ準備委員会やワーキンググループができると思いますけど、互いに理解しあった上で物事を進めたほうがいいに決まってるんです。そのためにも、早く交流をスタートさせなければいけない。分かりあうための時間が必要ですから」

もちろん技術的な面でも、解決すべき問題はまだまだたくさんある。開会式はどこでやるのか。

決勝戦はどちらでやるのか。韓国で何ヶ所、日本で何ヶ所開催できるのか。まだすべてが白紙状態だ。

「それに今からワールドカッブの予選があるし、その2年後にまたオリンピックがある。日本もそこそこ力をつけてきたし日韓戦によってワールドカップに片方が出場できて、片方が出場できないとそうなった時に、互いに民族感情があるから、自国を応援するでしよう。2002年のためのワーキンググルーブのメンバーは、どちらかが勝ってどちらかが負けた次の日にも、共同作業をしなければいけない。どうしたって人間ですから、感情的な部分はありますから。だからぎくしゃくさせないためにも、スポーツと違う分野の人たちの支援が必要だと思いますね」

前回のワールドカップは、たまたまアメリカで開催されたが、それまでワールドカッブが行われてきたのは、南米とヨーロッパだけだった。つまり2002年の大会は、アジアで初めての開催なのである。

「しかも21世紀初めての大会だし、共催という形も最初です。つまり最初が3つ重なった大会なんです。共催に関しては、確かにFIFAのごり押しという面はありましたけど、逆にアジアがそれを見返すくらいの素晴らしい大会にしたら、間違いなく世界から賞賛されるはずです。世界のアジアに対する認識は変わりますよ」

共催が成功したら、ヨーロッパでも南米でも共催は広がる可能性がある。隣国どうし仲が悪いというのは、ヨーロッパでも南米でもよくあることだが、共催がこんなに素晴らしいのなら自分たちも……という動きが起こるかもしれない。その時にりーダTシップを取れるのは、韓国と日本である。

つまり2002年のW杯はさまざまな意味で、日韓両国、そしてアジア全体にとって大きなチャンスでもあるわけだ。それだけに、何が何でもいい大会にしたい。金田さんの夢は広がる。

「そのためには、日韓が惜しみなく協力するのはもちろんですけど、他のアジアの人達の協力なしにはできないんです。語学ボランティアをはじめ、世界への貢献という形で、いろいろなボランティアが必要で、それは二国だけではどうにもならない。アジアの他国の協力は不可欠です。でも、『いい大会をやってやろう!』という両国の意気込みが伝わらないと、協力はしてもらえない。そのためには、まず日韓ありきです」

世界初の共催なんだから、アジア全体で盛り上がったら最高じゃありませんか。そう夢を語る金田さんの力強い口調に、現場の人間として、W杯成功のために力を尽そうという決意が込められているようだった。




朝鮮高校卒業ではじめてJリーグ選手になった玄新哲選手は、サッカーが盛んな朝鮮学校の後輩達に大きな夢と希望を与えてくれた。だが本人は「ここで結果を出さない限り今はまだものを言える身分ではない」と、プロの世界の厳しさをかみ締めている。そんな玄選手の素顔に迫ってみた。

 

「最大の夢は南北統一チームの代表に選ばれることです」

「サッカーやるきっかけ?良く聞かれるけど朝鮮学校といえばサッカーしかないから」

「僕が朝鮮高校を卒業した翌年から、日本のいろいろな試合に出られるようになったけど、僕の年には何にも出られなかった。選手権もインター杯も、なにも出られんかった。出られへんのが当たり前かぁ、思ってた。そんな試合があることも知らんかったし」

「サッカー推薦で近畿大学に入ってでも、監督が使ってくれへんから『なんでだしてくれへんねん』言いに行った。このチームで出られへんのが、どうしても納得でけんかったから。そしたらなんやゴチャゴチャ言われて『ほんならもうやめます』言うた。やってられへん思うたから。でも結局やめへんかった。Jリーグには在日枠いうのがあって、チームに一人しか入られないんです。それも日本の高校か大学を卒業しているか、大検とらなあかん。そやから、大学やめられへんかった。どうしても卒業資格ほしかったから。外人枠ではとてもやないけど無理やから。」

「大阪の試合で、初めてアボジやオモニや朝鮮学校の友達が観に来てくれた。そんな時は最高にうれしかったけど、今はどうでもいい。ここで結果出せるかどうか。それしかないですから」

「ワールドカップ?まずここで試合に出られな、話しにならんから。今は、何か言える身分やない。ここで結果だして、結果を伸ばして初めて物言える。今はそんなこと考える余裕はない」

「前は朝鮮代表に選ばれたかった。小学校の頃からめちゃくちゃ憧れてたから。でも最近なんでかようわからなんけど、それが薄れている。 …………やっぱり今一番やりたいのは、 統一チーム代表です。 統一チームなんて話、今はまだないけど」

 


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