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在日にとっての「ワンコリア」
 文京洙

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 国 民 国 家 へ の 問 い

 正直に言って、本国の統一を、私たち在日朝鮮人が共に見る夢とする時代の条件はますます衰えつつある、と私は感じている。もちろん、統一は、いまだに彼岸の夢としての意味を失ったわけではない。けれども、統一がそういう夢である度合いや意味は、皮肉にも、「ワンコリアフェスティバル」が歩んだこの十年余りに相当に変わった。

 戦後世界の冷戦にピリオドを打ったこの十年は、良くも悪しくも、「戦後五十年」の締めくくりにふさわしい変化を私たちにもたらした。この十年の、目もくらむばかりの時代の変化は、私たちが慣れ親しんできた日常の規範や常識さえも問いつつあり、そんな時代には、自明の理念とされてきた統一の中身も不変というわけにはいかない。

 「戦争の世紀」といわれる二十世紀は、国民国家が世界に遍くゆきわたる「国家の時代」でもあり、いうまでもなく私たちコリアンも自前の、そして統一した国家のもとに生きることを夢見てきた。けれども、よく考えてみれば、国民国家というのは、経済的にはせいぜい産業革命以前の生産力の段階での人間生活の枠組みにすぎない。科学技術が進歩し、生産力や交通・通信手段が発展すれば、人間生活の空間的枠組みもそれにみあった広がりをみせる。十九世紀の第二次産業革命を経た頃には、世界は国という枠組みを越えて一体のものとして組織されねばならない段階にあったといってもいい。この頃のマルクス主義者たちが働く者のインターナショナルな連帯を強調したのも、そういう、モノを作り、流通させ、消費するという循環の世界大への広がりをふまえてのことであった。けれども、人間はそういう経済的な土台にみあった世界大の政治的な枠組みをつくりだすことができなかった。むしろ、この時代は、イタリアやドイツの統一、あるいは明治維新といった具合に、人々のネイション(国民、民族)への結集が一段と進んだ時代だった。経済の次元で世界の一体化がすすみ、人々の生活同士の関係が緊密になればなるはど、国家同士の攻めぎあいも高じて、人々はそれぞれの属する国民や民族として互いにしのぎを削ったわけである。民族は、政治や戦争へと人々をかき立てる明快にしてほとんど唯一のイデオロギーとなった。ドイツの革命の失敗で世界革命への展望を失ったロシアの社会主義も、そういう攻めぎあいの渦中に引きずり込まれて国民国家としての生き残りを模索するしかなかった。

 戦後アジアの自立と解放への動きも、そういう国民国家という枠組みを前提にしていたことはいうまでもない。もちろん、「バンドン会議」とか「平和五原則」に示された理念は、国同士の対決よりも共存を前提としてそれまでの国際関係のありようを批判していたわけであり、この時代のアジアのナショナリズムが文句なしに歴史の「進歩」を意味していたことは疑う余地がない。けれども、戦後独立を果たしたアジア諸国も、国というものが歴史的に抱え込んできた矛盾とか病理を少なからず引き継いでいたことも否めない。

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 そういうアジアのナショナリズムの時代に、朝鮮の独立は、分断と戦争の悲劇をともなった。近代に植民地となって国民国家としての自立に挫折した私たちの民族は、独立と解放が約束された戦後においても一つの国家のもとに生きることはできなかった。私たちコリアンが国民国家をめぐって被った挫折は、私たちが統一した国民としてあろうとする彼岸の意識を神聖なまでに高め、それは1955年の例の「路線転換」を経る頃には私たち在日朝鮮人のあり方をも律する規範となった。

 この「路線転換」を通して、在日朝鮮人運動は、私たちと日本社会との間に、国民国家の論理をストレートに持ち込んで、自分たちを「海外公民」、つまり「外国人」としてきっぱり宣言することになった。民族とか、統一は、私たち戦後生まれの二世にとっても、かけがえのない心のよすがとなった。いまにして思えば、この「路線転扱」は、すでにすっかり日本に板づいていた在日朝鮮人と日本社会との関係で、「ボタンのかけ違い」ともいうべき組磨を少なからず含んでいたかもしれない。けれども、ともあれそういう理念に導かれなければ、私たち在日朝群人の多くは自分を律する鏡を失い、同化どころか、悪くすればマフィア化して、いまだに日本社会の陰の部分に源み続けていたであろう。

 私たち日本生まれの二世が、民族や統一に自分たちの行く末を結びつけようとしたのは、日本社会で差別され疎んじられる代位をそこに求めた、という理由だけによるわけではない。もちろん、二世にとっての民族とか統一といった理念がいってみれば現実回避の宗教上の救済といった意味をもっていたことはたしかである。けれども、私たち二世の民族への傾斜は、教育とか啓蒙とかを通して植えつけられた観念としてのみあったわけではない。大半の二世は、「朝群人部落」での生活に象徴されるような、民族を実感し身にまとうことのできるような共同性の板を分かちもっていた。在日の集任地域での貧しい日常は、若い二世たちにもそれなりに民族としての資質や、統一へと向かう心をつちかう土壌となっていたわけである。

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 アジアのナショナリズムがその背後に隠しもっていた矛盾が明らかとなるのは、おおむね、70年代以降のことであるとされている。国民経済の狭さは、どこでも経済の離陸を阻んでいたし、これをクリアできたのは「新植民地」などと押絵されながらも世界市場にその身を委ねた韓国や台湾であった。政治や社会の面でも、「国民統合」という名文にかこつけて多数流に囲い込まれてきた少数者の自己主張が、宗教紛争や民族紛争という形で吹き出し始め、その後、これらはエスニシティの問題として議論されることになった。そういう歴史や文化の背景を異にするエスニシティ集団の自己主衷は、たいていの場合、戦後のアジアに生まれた国民国家のシステムそのものへの異議申し立てという性格をもっていた。ベトナム戦争は、いわばアジアのナショナリズムが最後の輝きを放った出来事であったけれども、75年のベトナム統一が果たされた後には、インドシナ全体で民族や国家を越えて取り組まなければならないさまざまな矛盾が明らかとなる。

 「七・四南北共同声明」(72年)が発表されたのは、そんなふうに全体としてのアジアのナショナリズムが曲がり角にさしかかろうとした頃であった。自主、平和、大同団結という統一にまつわる原理・原則を示したこの声明は、私たち在日朝鮮人を含む民族的悲願をかけねなしに映し出していた。けれども、この局面ですでに、為政者が口にする統一への主求には、自分たちが陥った矛盾を隠藤するような、ある種のいかがわしさが珍んでいた。そもそも、この声明が合意に至る経緯や、声明に盛り込まれた原則や条文そのものについても、ことに民主主義という点からしてその後いっそう発展させるべき限界をはらんでいたと言わねばならない。

 ともあれ、70年代も半ばを過ぎた頃には、アジアのナショナリズムは、大筋で、それが歴史的にもった進歩的な意味を失い始める。やがて、国民国家という枠組みについても欧米はもとより、一民族一国家の観念が根強いこの日本でも問われ始める。冷戦の終わりはこの傾向をさらに勢いづけたといえる。国同士の対立がのっぴきならない時代には、国家は、それを成立させる根拠とはかかわりなく、そのパワーを保ち続け、人々は国民国家にまつわる呪縛からなかなか逃れられない。冷戦の終わりは、山部の地域を除いてそういう対決の構造に終止符をうち、いま、国民国家はその生みの裁ともいえるヨーロッパがそうであるように、大きくも小さくも乗り越えられようとしている。

 私たちは、いま、そういう変化のなかにいる。日本の高度成長は、私たち在日朝鮮人を、いわば古典的な意味で民族たらしめていた共同性の根を殺ぎ落としてきたし、80年代以降の国際化は、私たちと日本社会の間に立ちはだかっていた垣根の多くをとりはらった。朝鮮半島の冷戦も、しぶとく一進一退を繰り返しながらも、着実に雪解けの方向へと歩んでいる。もちろん、私たちにとって国家とか民族はもう意味を失った、とは言わないが、少なくともその意味は大いに変化した。

 たとえば、民族である。民族を、一民族一国家という考え方が想定してきたような、画一的な集団化の定式として一律に在日朝鮮人におしつけることはもうできない。いまでは民族というものも、多様な濃淡をもった一人一人の個性、もしくは、ある個人がいやおうなしに抱え込んだいくつものアイデンティティのうちの一つとして相対化してかまわないのではないだろうか。「ワンコリア」という主要も、単なる一体化ではなく、そういう一人一人の多様な個性の承認の上にたった統一であり、「ワンコリアフェスティバル」のこれまでの歩みもそのことを前提としていたはずである。

 さらに言えば、国家についても、民族の統一を必ずしも国家の統一としてのみ思い描く必要はないのではなかろうか。もし、「ワンコリア」が、戦後半世紀の歳月を通して幾重にも引き襲かれた私たちコリアンが、互いの絆を確かめあい、アジアという広い視野にたって、相互に折り合いながら、自覚的に築く新しい洗練された共同体であると言えるなら、それは必ずしも国家としての統一を前提としなくてもいいはずである。要は、自由で多様な結びつきを深めあうことであり、「ワンコリアフェスティバル」がそのために担える役割は、今後ますます大きくなるだろう。

(1995)

 


 

 

文京洙(むん・ぎょんす)
1950生まれ。法政大学社会科学研究課修士課程終了。
立命館大学教授。
著書に「現代韓国への視点」(共著・大月書店)、訳書に「済州島・四三蜂起」(新潮社) などがある。

 

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