奥田瑛二

1950生まれ、79年「もっとしなやかに、もっとしたたかに」の主役に。以後の活躍は周知の事実だが、94年ブルーリボン賞主演男優賞を始め、国内の賞を総嘗めした。新宿梁山泊の金守珍からは「兄貴」と慕われている。

 

38度線を挟むベルトゾーンに
北でも南でも絶滅した動物が悠々と生きている。
それを見て、人間とは何なのだろうと思った。

 

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二つの手は、握りあってはいない。

指と指が、微妙に触れそうで触れない位置にある。でも、次の瞬間には、きっと触れ合うだろう。なぜなら指は互いに、触れたがっているのだから・・・・。94年のワンコリア・アート展で、奥田瑛二さんが描いた絵だ。

「二年ほど前に一年間をかけて、四季を追ってDMZ、いわゆる38度線に取材に行ったんです。その間、僕は実感として、分断されていることの切なさや哀しみというのを感じた。あの絵は、その切なさを表現したつもりです」

ちょうど、朝鮮戦争が勃発した一九五〇年に生まれた。自分が生まれた年の出来事として、心に引っ掛かっていたから、いつか検証してみたいという気持ちは持っていた。

「でも、最初は正直言ってたかを括っていた。よし、どういうところか見てやろう。普通は入れないところに入れるっていうし………といった感じで、興味が勝っていたんだと思う」

だが、何度か通ううちに、自分の中で何かが変わっていく。それは、自分でも予想していない変化だった。

「僕は戦後生まれだから、戦争というものにリアリティがないわけだよ。もちろん親が話してはくれたけど、昔語りといった感じでしか聞いていない。それに日本は、広島、長崎といった場所が象徴的にあったとしても、戦争の傷跡というのは表面的にもうはないでしょう」

だが朝鮮半島には、戦争の傷跡が生々しく残っている。いや、残っているという言葉は正確ではない。分断の歴史がいまだに終わっていないという意味において、戦争はまだ終わっていないのである。

「たとえば、あるおじいさんが涙を流す。その涙は何であるかというと、やはり国が二つになった哀しみなんだ。魂の分離、血の分離なんだから。でも、声が届かない。その届かない切なさというものが、一年かけて、僕の中でどんどん増幅していったんだよ」

軍事演習にも立ち会い、トンネルにも入った。軍事境界線の幅が狭くなり、北まで五〇〇メートルに迫ったところでは、北の兵士が高性能の兵器で自分に照準を定めているのまで、はっきりと見えた。ものすごい緊張感だった。自分は恐ろしいところにいる。しかもこの緊張感は、同じ民族どうしが生んでいるものなのだ……その38度線を挟むベルトラインの中に住んでいる、ある年老いた農民と出会った。彼はかつて、北の地から南に逃げてきたという過去がある。

「それでいったんはソウルに住んだんだけど、子供が死んでから、ベルトラインの中で農地を提供するというプログラムに応募した。その農地からは、向こうにずらっと兵士が張り巡らしているのが見えるし、毎日、北からのプロパガンダ放送が流れてくる。それを聞くと、布団の中にもぐって身を縮めていても、涙が溢れ出てくる。それが何十年も続いたって言うんだ」

しかしそんな思いをしてまで、何故そこに住むのだろうか。少しでも故郷の近くに住みたかった。彼はそう言った。それ以上、どう説明したらいいのか、言葉が見つからないようだった。そのおじいさんは、日本語を話すことができた。だが日本語で喋ることを、韓国の国防省の人間が禁じる。これは遠くから映しているので、声は入りませんから。そう言って、おじいさんと並んで田圃の緑にポツンとしゃがんで、なんとか話を聞いた。

「何十年かたってやっと慣れた、やっとあの放送を聞いても平気になったって言うんだ。でも僕が、あの放送は誰がやっているのですかと聞くと、『それだけは日本語でも言えない』と震える。『金日成つ』と僕が言うと、おじいさんは『言わない、言えない』と激昂する。そんなこと言ったら、自分はダメになるって」

その言葉の前に、何を言えばいいというのだろうか。切なさだけが、哀しみだけが、少しずつ少しずつ、心に降り積もっていく。

「でもそういう軍事境界線の立ち入り禁止区域の中に、北でも南でもすでに絶滅してしまった動物や魚が、まだ生きているんだよ。誰も足を踏み入れないから。戦争でえぐりとられた爪痕に、動物たちだけが悠々と生きている。シカがゆっくり顔を出して、草を食べたりして。その自然のありようと、人間の不自然さの皮肉な対比が、ものすごく不思議だった」

人の営みなどまったく知らずに、草を食む動物たち。素直に心をほっとさせる風景だけに、余計、人間という生き物の不条理さへ思いがつのる。ひとむら切なさが、また一叢、心に降り積もる。

正面向いて語れることで楽になった。

「あの取材を通して戦争というもの、民族の分断というものの哀しみに直接触れた人間として、僕は自分のりアリティとして何かを語ることができるようになった。それまでは、朝鮮や韓国のことに関しては、いったん唾を飲み込んでから発言する、みたいなところがあったけど。でも、僕なりに深くかかわることによって、なんでもストレートに自分の言葉で言えるようになって、その分ある意味で楽になったような気がするね」

たとえば、在日コリアンの役者や文化人たちとも、ストレートにいろいろな話ができるようになった。多くの日本人は、こと在日に関しては、薄い膜を通したような妙にギクシャクした感情で接するきらいがある。だが、それがまったくなくなった。

「新宿梁山泊の金守珍とのつきあいが始まったのも、そういうことが関係していると思うんだ。何か引き合うエナジーがあって、出会うべくして出会ったというか。彼と出会う準備が、僕のほうでできていたんだね。正面向いて発言できる勇気を持てたことで、結果として互いに引っ張りあうことになったんだと思うよ」

民族や国家といったものとは関係なく、個人の感性と個人の感性が集まって何かを作る時代が、ようやく始まりそうだという予感がある。金守珍とのコラポレーションも、その第一歩だ。もっとそれが拡大化していけば、面白いもの、素晴らしいものがきっとできるはずだ。

「クリエーターとして何かを創る場合、意識しなくても、血と言えばいいのか、民族のアイデンティティがどこかに出てくるはずだから。特に個人として国際的な仕事をしようという場合、民族のアイデンティティを自分の内側に持っていないと、結局は受け入れられないし認められないと思うよ」

だから、本名で仕事をする在日の人たちが増えたのは、とてもいいことだと思う。そして、無理しないで、お互いをぶつかりあうこと。そこから、今までにない新しい未知のものが生まれるはずだ。

「僕自身、自分に根差した言葉で正面向いて語れるようになったことで、楽になった。同じように、僕たち日本人も、傲慢に聞こえるかもしれないけれど、在日コリアンの人たちを楽にしてあげなきゃいけないって思うんだ。自分は日本人だってふりをして生きていくのって、やっぱり本当は楽なことではないと思うし、血のアイデンティティは大事なものだから。だから僕は、自分が在日であることを忘れよう、日本人と同化しようとしている人には、ハッキリ言うよ。君はなんでコリアンであることに誇りを持たないのって」

お互いに、楽になること。無理をしないこと。そんな難しいことではないはずだ。だが、難しい時代があったということは、在日であろうが日本人であろうが、同じように受け止めなければいけない。

「その意識を持たない人間は、社会に参加する資格がないと僕は思う」

その上で、あとは個人としてどうぶつかり、いい関係をつくるか、だ。

「僕は楽観的に見ているけどね。魅力的な人間は、何人だって魅力的なんだし。僕はいつだって、魅力的な人を探しているんだ」

96年は金守珍の演出で、新宿梁山泊の紫テントの舞台に立つ。魅力的な男どうしの、正面向き合ってのぶつかりあい。さて、どんな火花が散るのだろう。