逸賞の夜
八時三十分

平岡正明

 七月十八日夜の八時半にいい光景を見た。梁石日『夜を賭けて』が直木賞を逸したという報が入った時刻である。沈黙は十秒、失望は三十秒、十年に一度あらわれるかどうかという傑作の落選に、ネガティブな気分になった時間は一分とあるまい。一分後には、おされて凹んだ空気が倍の内圧ではねかえされていた。梁石日が立って挨拶した。「みなさん、すみませんでした」。それだけである。

 まず、唐紙をあげはなって、次の間に控えていた報道陣と文芸各誌の編集者たちが立ってひきあげた。俺はかれらのドライさが気に入った。作家の個性、芸術性、思想性への尊敬をけっして作品の商品性の上位には置かぬように訓練された編集者たちは、自動車のセールスマンなどに似たタイプだった。梁石日は今後彼らとも仕事をするようになるだろうと直観した。

 俺は彼が戯曲を書くようになることを期待している。勝新太郎が梁石日に台本を書いてくれと頼んだともきいている。それとは別に日本に老舎型の戯曲を書く者が出るとすれば梁石日だろうと思っているが、そのとき脈絡もなく、産業の第一線で働く人間の悲哀を、たとえばアーサー・ミラーの『セールスマンの死』のような現代劇を彼は描くのではないかと連想した。

 報道陣と文筆誌編集者がひきあげたあと、部屋に山下洋輔がいた、崔洋一がいた、朴保がいた、金守珍がいた、中村満がいた、下仁子がいた、野崎六助がいた、福原圭一がいた、金久美子がいた、森直実がいた、岡本央がいた、田月仙がいた、鄭甲寿がいた。日韓の芸術的精鋭がいて梁石日を中心にワイワイやっていた。

 彼の本を担当した編集者たち、『族譜の果て』と金時鐘詩集を出した立風書房の白取清一郎、徳間文庫で梁小説群を出しつづけている栗山一夫、『闇の想像力』を担当した解放出版社の鈴木達子、フリーの向井徹、NHK出版の小川真理生、彼は『夜を賭けて』の担当であり、この作品はNHK出版が出す最初の書下ろし小説であり、当夜の勧進元である。受賞をいっしょに祝いたいという友人が応援団規模にふくれ上がったので、当落待ち会場を渋谷に用意したのは彼だ。

 梁、山下、中村、俺の四人は筒井康隆共闘いらいのメンバーで、東京ビビンパクラブは四月一日断筆宣言祭の出演者だというように個々の関係はあるが、これだけのメンバーが義理では来まい。来たのは梁石日の思想性だ。

 俺が驚いたのは在日の芸術的精鋭が多いことであり、それも映画、演劇、音楽、美術に多いということだった。在日コリアンの作家は少なくないが、主知的な作家たちと異なり、梁石日の小説は身体を張る表現者の軸だということだ。在日の表現は戦いだということだろう。

 そして、これもまだ直感の部類だが、在日コリアンの間にしめる猪飼野アパッチの貫禄だ。七月十八日夜の待機会場にいたのは二世三世だろう。一九五〇年代後期の猪飼野アパッチの反乱は伝説でしか知らないはずだが、民族的記憶としてのアパッチ伝説の強さを感じた。

 一九四五年六月三十日夜十時、すなわち日本敗戦四十五日前、秋田県花岡鉱山におこった中国人反乱にはじまり、一九五八年のアパッチ反乱における戦後日本史のもう一つの記述が可能だ。

 アパッチ反乱の特質は自然発生的ということだ。花岡事件がそうだったように、アパッチ反乱は党の指導によるものではない。在日朝鮮人共産主義者「祖防隊」は朝鮮戦争下に米占領軍の弾圧によって壊滅していたし、組織的には日本共産党傘下に属していた在日左翼は六全協以後のズブズブ路線によって翼をもがれていた。

 戦後日本史における前衛党の惨憺たる誤謬の中で、闇市は人民共和国として輝いていたのである。オーケイ、このテーマは俺がやる。

 一九五〇年代末に「ヂンダレ」同人の三人の生きのこり金時鐘、梁石日、鄭仁が組織中央に対して行った分派闘争、すなわち個人崇拝の否定と在日の感性からの出発という方向は、『夜を賭けて』とともに闇の中から立ち上ったもう一つの東アジア史に裏づけられて、在日主体の表現によって民族文化を創出しつつある連中にひきつがれたと見る。七月十八日夜はそういう日だったと俺は見る。

平岡正明 Hiraoka Masaaki

1941東京生まれ
早稲田大学ロシア文学中退
野毛大道芸実行委員会

 

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