勝 者 の 正 義

李正子
Lee Jungia

 戦後五十年目という節目の今年は、例年になくその種の特集が目立つ。新聞を開けば「今語られる東海のひめゆり学徒隊」「戦艦大和の家族たち」「私たちはどう生きたか‐戦後五十年」といった具合。見出しを読むと、もうその先は読む気がしない。

 日曜日の午後、ゴロリと寝転んでテレビのスイッチを入れると、折しも広島の原爆記念日で、日本のテレビ局がアメリカへ被爆国民の意志を伝えるという内容の番組を映していた。

日本側の取材班が質問する。若い男性だ。

「ヒロシマを、どう思いますか?」

「ああ、ヒロシマは戦争終結のために必要だったんだ。原爆は百万人の命を救ったサ」

何人かいるうちの一人の白人青年がそう答えた。日本の取材班は反論するわけでもなく黙っている。隣にいたアジア系の青年が怒鳴るように言った。

「人の命を救うために人を殺すなんておかしな話さ。ドイツにだったら絶対にやらなかっただろうよ。アメリカはアジア人なんて人間と思っていないんだ」

取材班は今度は在米日本女性にインタビューした。すでに髪が白い女性だ。

「ヒロシマを言うと、すぐさまジャップ!ゴーホームと言われてしまいます」

これからも、それでもヒロシマをアメリカ市民に理解を求めるために訴えを続けるつもりだとその女性は答えた。カメラは彼女をアップで映した。まぶたが潤んでいた。

これって、どこかで見かけた風景じゃないかしら。うんうん、そうそう、思い出した。アメリカ人と日本人の関係を、日本人とわが民族とに置き換えてみると、ほら見える、見える、この風景、私が日常生活の中で繰り返している現実の風景とそっくり。

「ヒロシマ」を「侵略」にすれば、全くこんなにも似ているなんて・・・私はおかしくなって笑ってしまい、しまいには泪さえこぼした。

ヒロシマも侵略も戦争も、人類史上繰り返してはならないことである。アメリカの、戦争終結のために原爆を落としたという理論を、日本人は決して肯定しないだろう。そう考え信じ、平和を訴えてきた日本人が、一方で中国や韓国、朝鮮、他のアジア諸国へのかつての侵略を、認めようとはしないこの矛盾。

広島の平和記念公園内には今も韓国人の慰霊碑は入れられていない。五年前に、南北双方の総意がまとまれば、公園内に慰霊碑を入れてもよいとする回答が出された。南北の分断の事実を知りながら、ボールを民族側に投げ出した。これは欺瞞だと私は考えている。

勿論民族側にも越えねばならない問題はあるのだが、何故にイデオロギーを論ずるまえに同じヒロシマの犠牲者として悼む気持になれないのだろう。それで反核だ反戦だ、ヒロシマだ五十年目だとするのは、何とも自己中心的で滑稽な感じがする。思うに歴史とは勝者強者によって創られる。正義もまたそうである。戦争で人を殺すこと、核をもつこと、侵略すること、これらは国家の名の下では勇気ある行動で正義として美化される。

日本での少数民族であるわが民族にも、ふりかえれば被支配者であることを歴史的優位にたたせる、エゴイズムや正義感がなかったであろうか。考えなければならない時期である。

何が正義なのか、何がエゴイズムで何が欺瞞なのか、それを知ることが歴史を学ぶということなのかもしれないとつくづく思ったことである。

李正子 Lee Jungia

歌人。在日コリアンとして初めて、日本の教科書に短歌が載った。
84年第一歌集『鳳仙花のうた』
91年第二歌集『ナグネタリョン−永遠の旅人』
他に『ふりむけば日本』

 

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