Pak Poe
「東京ビビンパクラブ」と、
メッセージ色の強い「朴保&切狂言」で、
ボーカルギター担当。
1983年から10年間、サンフランシスコを拠点に音楽活動を行い、
平和運動やネイティブアメリカンのメッセージを
歌で伝えるユニークな活動で名が高まる。
1992年、葉は伸しで一時帰国をしたのをきっかけに、
ワンコリアフェスティバルに参加。
異国の地に葬られ人としてうかばれたか霊は眠らずさまよい今も泣いている
朴保が、魂の底から声を絞り出す。やや掠れぎみの、張りのある声にこめられた怒りと哀しみに、会場に居あわせた人々はすすり泣き、ある者は峯を簾わせる。戦後補償を求める裁判を起こしていた、在日韓国人の優凄軍人・陳石一さんの追悼集会の時のことだ。
「陳ハラポジと出会って、この歌を作りました。陳さんに聞いてもらいたかったのに、間に合わなかった!」
目を閉じて軟う村保のまなじりに、涙が光っていた。朴保、四十歳。在日一世の父と日本人の母の間に生まれた。
「うちのオフクロは、親から勘当されたんだよ。朝鮮人と結婚するんだったら、二度と敷居をまたぐなって」
パチンコ屋のチンジャラジャラという音を子守歌に聞いた少年は、十歳の時に音楽と出会う。レコードと兄が、音楽の先生だった。出発はベンチャーズと寺内タケシ。兄はギター、弟はドラムを担当する。
「その頃、うちは解体屋をしていたからね。タイヤのホイールとかあるじゃない。そういうものを組み合わせて、ドラムを作ったんだ」
もともと音楽の素質があったのだろう。基本的なことを教えてもらうと、すぐにドラムをこなせるようになった。中学三年になると、ギターとボーカルを担当することになり、学校と家業の手伝い以外の時間は、すべて音楽に費やすようになる。
「親父はそれが、気にくわないわけよ。典型的な一世だから、メチャクチャ頑固でね。俺もけっこう反発したな」
反発した理由の一つは、居場所がないという苛立たしさのせいだったのかもしれない。広瀬保という名前で、日本人として日本の学校に通う。
広瀬とは、母を許さなかった母方の家族の姓だ。家に帰ると、父は朝鮮語を交え、同胞たちと酒を酌み交わし気炎をあげている。革命、金日成、共産主義。そんな言葉が飛び交っていたことも、よく覚えている。
「でも親父はいつも中立で、北にも南にも偏っていなかった。今思うと、それはとてもありがたいことだね」
夏休みになると、父の同胞が呼びに釆て、ウリマル(朝鮮語)や民族を学ぶ会に連れていかれた。だが、父親が日本人と結婚したことをとやかくいう同胞がいるということも、薄々感づいていた。
「親父は、朝鮮人であることをとても誇りに思っていたし、俺にも誇りを持てと教えてくれた。たとえば日本では、チョーセン人という言葉は差別的に使われてきたから、絶対に使ってはいけない、チョソンサラムと言えと親父は言う。でも、日本人の中にいると俺は日本人じゃないけど、朝鮮人の中にいくと、やっぱり俺は朝鮮人でもないんだよ。じゃあ、俺はいったい何なんだって」
そんな広瀬少年にとって、音楽はまさに魂を解放させてくれる世界だった。いつしか、既成のバンドのコピーでは飽きたらなくなる。自分で曲を作りたい。高校一年で初めてオリジナル曲を作った広瀬保は、二十四歳の時、ついにワーナーでレコードデビューを果たすことになった。事務所の人が彼につけた芸名は、広瀬友剛。そのままオリジナル曲だけでレコードを出していたら、もしかしたら朴保の人生は今とは違ったものになっていたかもしれない。そう考えると、出会いというものは本当に不思議だと、朴保は語る。
「あるディレクターが、この曲を聞いてみるって。それが、国の宋昌植の『ウエブロ』だった。むこうでものすごく流行っていて、その日本バージョンを作ろうってことになって、たまたま俺がやらせてもらうことになってね。でもそれは単なる偶然で、別に俺がコリアンの血を受けているからではなかったんだ。それに最初聞いた時は、自分のやりたい音楽の傾向と全然違うし、正直言ってピンとこなかった。それが何度か聞くうちに、心と体にどんどん入ってくる。それで最後には、この曲は俺がやるしかないって思うようになったんだ」
あっ、きたな。朴保はそう思った。それは、大きな波が自分に押し寄せてくるという、ある予感であった。
一九七九年、広瀬友剛は『ウエブロ』をひっさげて全国ツァーにまわる。ところが、韓国語で歌い始めたとたん、客が笑い出す。なぜ笑うのだろう。韓国語の響きが、そんなにオカシイのか。耳慣れない異国の言葉でロックを歌うというのが、そんなに奇妙なことなのだろうか。
そんな中で広瀬保は、なぜ自分は広瀬友剛の名で故うのか、悩み始める。なぜ日本人として、宋昌植の歌を歌うのか…。ウエブロの縁で韓国を訪問したことが、さらにその疑問を大きくさせた。その頃から朴保は、急激な勢いで父の祖国への思いを深めていく。そして、本当に自分が自分として生きていくためには、コリアンである父の姓を名乗るべきだと考える。朴保の誕生である。
だが当時の音楽界の状況では、コリアン名で音楽活動をするというのは常識外であった。「頭がおかしいんじゃないか」とまで言われた。それなら、常識の外で生きていこう。朴保は華やかだったそれまでの世界に別れを告げ、「朴保&切狂言」というバンドを結成。農楽kやパンソリなどコリアンの民族音楽を取り入れ、独自の音楽を築いていった。音楽活動の場も、変わっていった。平和運動内差別に反対する在日コリアン青年の集い、原発反対の集会、環境運動……求める人たちがいれば、どんなにギャラが少なくても、あるいはノーギャラであっても、朴保&切狂言はでかけていき、歌い続けた。
「いい出会いがたくさんあった。出会いの中で、僕自身が勉強させてもらったし。たとえば渡良瀬川に呼ばれるまでは、足尾銅山の公害と闘った田中正造のことも知らなかったんだよ。歌うことで、いろいろな人からいろいろなことを教えてもらった」
さらに出会いは、朴保をアメリカへと導く。一九八三年のことだ。
「反原発コンサートに招かれてカリフォルニアに行ったんだけど、コンサートが中止になって。斤道切符だったから帰れないんだよ。それでストリートミュージシャンを始めてね」
カリフォルニアで約十年間過ごす間に、朴保は地元の音楽通の間で知らない人はいない存在になっていく。音楽性の高さに加え、ネイティブ・アメリカンの予言を歌で伝えるといった主張のある彼の音楽活動を、西海岸の人たちは高く評価したのだ。そんな時、母危篤の急報を受け帰国。
「オフクロが死んでから、親父が急に元気がなくなってね。でもそれまであまり面とむかって親父と話したことなかったけど、ずいぶんいろいろなことを話すようになったなぁ」
一時帰国中に、東京ピピンパクラブを結成する話が持ち上がり、参加することになった。朝鮮籍、韓国籍、日本人が混じった、まさにまぜごはんバンドである。
「その頃、新宿梁山泊の金守珍から、ワンコリアフェスティバルの鄭甲寿を紹介されたんだ。ワンコリアフェスティバルのことは、サンフランシスコにいる時から中上健次さんを通して知っていた。中上さんは自称、俺のファンクラブの会長だったから。それでもしチャンスがあれば、出たいなって漠然と思っていたんだよ。南北統一は親父の悲願だったし、もちろん、僕の思いでもあるから。また、『あっ、きたな』つて思った」
いつも何か大いなる力によって、自分の「居場所」に導かれてきたと朴保は言う。そうやって歌うべき場所と歌うべきものが、いつも用意されてきたんだよ、と。
自分の居場所を探してあぐねていたかつての少年・広瀬保は、今、自信を持って自らの歌を歌う。波の歌は聞く人の心の奥深くに届き、心に揺さぶりをかける。今年は新生「朴保&切狂言」のCD「WHO CAN SAVE THE WORLD?」も発売された。その中で朴保は、在日傷痍軍人の痛みを叫び、原発への怒りを訴え、愛を歌う。阪神大震災の時には、いてもたってもいられなくなり、何度も神戸に歌いに行った。
「七転び八起き」という元気のいい曲は、権災者たちを励まそうと生まれた曲だ。「自分の生き方を通すことが、ロックだ」
朴保という名で活動を始める時に、レコード業界の人たちに向けて放ったその言葉は、まさにその後の彼の人生を象徴することになったのだ。頑固一徹の父親は、村保が髪を長く伸ばしていることもロックをやっていることも、絶対に認めようとはしなかった。お前みたいな息子は故郷に連れていけないと、頑なに韓国に連れていかなかった。それが最近は、韓国に一緒に墓参りに行くようになった。こっそりライブ会場にも姿を見せるようになった。
「あんまり物分かりがよくなると、なんか寂しいんだよ。親父も年とったなぁって」その父親への思いから生まれた、素敵なラブソンクがある。
♪小さい時のお父さんは
仁王様のように恐かった
苦しい時も悲しい時も
うしろを向いたままのお父さん
うしろ姿のお父さんは
どんな時にも揺られず
重い石のようで
海のように 広い心を持った人
いつかはきっと
お父さんみたいな人になりたい
ありがとう お父さん
サランヘヨ サランヘヨ アボジ♪
陳石一さんの追悼集会の時、石一さんの長男は決して涙を見せまいとずっと歯を食いしばっていたが、村保が「アボジの歌」を歌うと、我慢できなくなって男泣きに泣き崩れた。
朴保の歌。それはまさに、魂の歌なのである。
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朴保&切狂言(パクポォ&キリキョウゲン)
POE-01 2,800Yyen 1995年
MONJU/傷夷軍人の歌/HIROSHIMA/七転び八起きて
他全11曲
ゲスト:妹尾隆一郎、広瀬淳二、向島ゆり子、 シーサーズ 他
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朴保&切狂言(パクポォ&キリキョウゲン)ホームページ
http://www.peace1.co.jp/~f10463/index.html
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