アジアを吹き抜ける
風となって ―
演劇、そして
ワンコリアフェスティバル
金守珍
都市に忽然と現れる、妖しげな紫色のテント「紫龍」。夜な夜な、力強くも優しいアジアの波動を町に送り出す。
そのテントの主こそ、今もっとも元気な劇団、新宿梁山泊を率いる金守珍だ。彼の波動はワンコリアフェスティバルにも及ぷ。
もっとはばたけ、籠雲をおこせと、ワンコリアに檄を飛ばす。
僕はひょっとして、自分の中に持っている伝えたい「あるもの」が、かなり過激なのかもしれない。それを今の時代において他者に伝達する場合、ストレートに語ろうとしても、どうもうまくコミュニケーションできない。それならストレートに語るのではなく、違うものに託してみよう。僕の場合はそれが、演劇という形だった。
僕は蜷川幸雄という人の下で、演劇を始めた。その時は、いろいろなツマラナイ事情のせいで、金という本名でなく、大山という日本名でやらざるをえなかった。どうも違うな。やっぱり本名でやりたいな。一年半で見切りをつけ、本名で堂々と演れるところを探した。となれぱ、唐十郎の状況劇場しかない。李礼仙もいたし、唐さん自身「アジア人」としてパレスチナまで行ってしまった人だ。そのころ唐さんは、自分は何者かという問いの延長線上で、金芝河と交わったりもしていた。
僕は状況劇場に、骨を埋める気持ちでいた。だが状況劇場は、残念ながらなくなってしまった。いや、違う。僕の中ではまだなくなっていないし、やめてもいないつもりだ。他の誰がやめようと、僕は決して、やめてはいない。
そんなわけで新宿梁山泊は、ある意味で状況劇場の精神を受け継ぐ集団ということで旗揚げをした。だから何も、在日ということを旗印にしている劇団というわけではない。本名を名乗って表現したいと思っている僕が座長をしている、日本の劇団だ。その僕はしょせん、この国ではよそ者でしかない。よそ者だとしたら、どこから来たのか。それはもちろん、分かっている。それなら、どこへ行くのか。これは大変な問題だ。僕は、僕たちは、流れ者だ。人間には、土地を持ってそこに貼りついて繁栄していく人種と、流れ流れてゆく民とがある。その両方がいて初めて、文化が流通していく。流れ者がいないと、文化は滞り、澱んでいく。
流れる民である僕は、あちこちに出かけていく。でも行く先々で、よそ者が突然何かを語ったとして、どれだけ人が耳を傾けてくれるか。第一、言葉が通じないじゃないか。それならば、まず語る前に見せてしまえ。見せているうちに、実は今、自分はこういうことを抱えているのだ、だからこういう表現をしているのだということが、伝わっていくのではないか。
それが、演劇という表現だ。
●なぜワンコリアフェスティバルに
●かかわってきたか。ところで僕は、幽霊みたいな存在だ。祖国が統一されていないから、さまよえるオランダ人の如く、僕たちには帰るところもない。それに今統一しても、本当はもう遅いのだ。僕ら自身が、故郷とか祖国を渇望していた時期は、もう過ぎてしまったのだから。
僕らは日本で生まれた。あまりにも長い分断の歴史のせいで、それぞれに違う世界に長いこと馴染みすぎてしまった。朝鮮民主主義人民共和国、韓国、日本。習慣も生活も考え方も、まったく違う。一世ですら、もう祖国は「帰る」土地ではないだろう。今では海の向こうの半島の生活の肌合いは、僕にとっては受け入れにくいものになってしまった。
それなら、ワンコリアのワンとはどういうことか。むりやり一つの国に押し込めるということか。そうではないワンコリアが有り得るのか。それを考えることが、ワンコリアフェスティバルだ。
10年前にワンコリアフェスティバルを始めた当初は、まだベルリンの壁はあったし、東西冷戦も厳然たる事実だった。ワンコリアフェスティバルは南北統一を掲げて、独立記念日である8・15その日に開催したのだった。この日だけは、総聯も民団も帰化した人間も、みんな集まって一緒になろう。そういう思いがあった。
また、「隠れコリアンを探そう」という思いも、陰の大きな趣旨としてあった。芸能人もワンコリアフェスティバルの時だけは、本名を名乗ろうではないか。よく芸能人に対して、「実はアイツもコイツも在日なのだ」と、在日の間でもいろいろ噂をする。でも普段は日本名でも芸名でもいいから、この時だけは本名で本心を語ろう。そうしたら、若い在日の人たちが希望を持てるではないか。自分たちの出自を隠す必要がないと、自信が持てるではないか。そんな思いに憂歌団の木村充揮こと朴秀勝さんを始め、大勢の人が応えた。
僕もその考えには賛同していた。そして3回目から参加することになった。参加しようと思ったのは、僕が日本のアンダーグラウンド演劇をしていたからかもしれない。芝居は僕の表現手段だ。でも芝居をやっている僕は何人なのかと、自分に問いかけている自分がいつもいる。ただ演劇をやっているだけではなく、コリアンとして日常の中で何かやるべきではないかと、囁きが聞こえてくる。8・15に、おまえは何をやるのか、と。
とはいえ、どうせ僕たちはそんなに高尚な人間ではない。ミュージシャンたちと楽しく大騒ぎをして、新しい出会いをもち、絆を作り、励ましあい、みんな自分をさらけだそう。俺たちはコリアンなのだと、堂々と胸をはろう。それでいいのだ。そしてまた、それぞれの日常に戻っていく。
そうやって、3年目、4年目、5年目とワンコリアフェスティバルにかかわってきた。
6年目くらいから、はしだのりひこさんなど日本人が大勢参加するようになってきた。それに、憂歌団だって木村さんの他は日本人だし、白竜のバンドのメンバーも日本人だ。ワンコリアフェスティバルになぜ日本人が出るのかという意見もあったようだが、考えてみれば日本人が出る方が自然なのだ。日本でやるワンコリアフェスティバルなのだから。それに、ワンコリアになるために、日本という国にどれだけの役割と影響があるのかを考えてほしい。ましてや僕らは「在日」だ。日本にいる、コリアンなのだ。まず何より、日本人と共存しなければいけない。だから、日本人も一緒になってこのフェスティバルを大きくしていくことは、とても有意義なことだと思う。
●僕らコリアンがまず窓を開け
●足を踏み出さねば僕が悲しいのは、僕ら在日の間でも、「日本の文化は受け入れてはいけない」とか、「日本人は信用できない」などと考えている人がまだ多いことだ。敵とは言わないまでも、商売の種にして、自分たちの経済だけ発展させ、日本人とはコミュニケーションをとらないでいいんだと思っている。日本人から金をできるだけ巻き上げて、豊かに暮らして、あとは本国に送ろう、といったところか。
日本人もまた、今まであまりにも僕らのことを避けて通ってきた。それに未だに、お互いに差別の後遺症がある。たとえば最近は、朝鮮学校の女の子がチマ・チョゴリを切られるという事件が続いた。僕らの高校時代は、よく日本の高校生と乱闘をしたものだが、最近はそういうことはなく、弱い女の子が狙われてしまう。その方が怖い。何も乱闘を褒めるわけではないが、今みたいに潜在的な何ものかが弱いものに対して陰湿に向けられてゆく時代の方が、不気味な感じはある。
でも、僕らにも責任はあるのだ。僕らはあまりにも、日本人とコミュニケーションをしなさすぎた。断絶した状態のまま、長い時を重ねすぎた。まず変わらなくてはいけないのは、僕らなのだ。どうやったらこの日本社会で、日本人ともっといいコミュニケーションをとることができるのか。僕らがまず、窓を開かなければいけない。在日である僕らの側から、もう一歩足を踏み込まなければいけない。
日本は決して、単一民族国家ではない。アイヌもいれば、今ではさまざまな外国人が隣人として暮らしている。それを単一だと思いこんでいるから、僕らは永遠によそ者になってしまう。よそ者といっても、僕らは70万人もいる。日本社会を形成している少数民族だ。そういう民族が存在しているということを分かってほしいし、「なんか知らんけど、やつらって面白いぜ」と思ってもらいたい。いつまでも、「怖い」とか、「朝鮮人部落」とか、「あそこに行って遊んじゃだめだ」みたいなイメージでとらえてほしくない。大勢の人が横浜のチャイナ・タウンに行って楽しむように、コリア・タウンなんかができて、楽しい遊び場所になればいいな、なんて思ったりする。
「どうもコリアンは面白そうだ」と思ってもらうには、まず僕ら自身が素敵にならなくては話にならない。そのためには、自分が今いる場所で、今やっていることを、もっともっと磨きぬくことが大切だ。
すべては、まだ始まったばっかりだ。一世たちは食べることで精一杯だったし、未だに呪縛霊から逃れられないでいる。ある程度豊かな時代に育った僕らは、徐々にいろいろな分野で自分というものを見つめ、それを形にしたり、表現したりし始めた。でもまだまだ、やろうという思いと実際のレベルの間に、大きく開きがある。まだアマチュア的なのだ。一生をかけて僕らは、自分を磨いていかなければいけない。それを次の世代が、どう受け継いでいくか、だ。
●演劇をやることと
●ワンコリアフェスティバルの接点さて、話をワンコリアフェスティバルに戻そう。ワンコリアフェスティバルも10年のうちに、少しずつ姿が変わっていった。ワンはワンコリアのワンだが、ワンアジアのワンでもある。それだけでなく、みんなが一つになるという意味のワンでもある。日本人でも何人でもいい。大きく広がり、ゆるやかにつながっていこう……そういう思いを持つ参加者も、だんだん増えてきた。
そうやって広がりを持つようになると、新しいジレンマも生まれる。何人でもいいというが、それでは統一とか民族のアイデンティティは、どこに行ったのだ?なんでアイツが出るのだ。アイツのメッセージは気に食わない、などと言い出す人が出始めてくる。これは、いいことだと僕は思っている。今までそういう言いあいがなかったから、ある意味ではこのフェスティバルは逆風を受けないできた。でも一回ゴチャゴチャに混ぜて、闘いもあり失敗もありといった状態に持ち込んだ方がいいのだ。そこからこのフェスティバルは大きく飛躍し、成長すると僕は思っている。ちょうど10年。ワンコリアフェスティバルもターニング・ポイントを迎えたのではないだろうか。
僕個人にとってワンコリアフェスティバルは、自分の民族の問題、国の問題、日本で次の世代に民族のアイデンティティをどう伝えるかといったことを考えるいい機会なのだ。一年に一回くらい、そういうことをキチンと考えたいと僕は思っている。でも、どうせ参加するなら楽しい方がいい。それも本音だ。それに、やるからには誇りの持てるいいものを作らなければならない。
とにかく僕としては、このフェスティバルに日本人も参加するようになって、自分の視野が広がったような気がする。一皮剥けた、といったところか。これからがきっと面白いだろうという予感がある。
僕は今まで、自分の劇団の活動と、ワンコリアフェスティバルを、分けて考えていた。ところが最近、自分自身の中でも風通しがよくなってきたのか、なんだ、やっていることはどちらも変わらないではないかと、思えるようになってきた。それは、僕自身が「根を張らない」という覚悟のようなものを持ったからかもしれない。浮遊していこう。そして、流れに身をまかせ、浮き草のように流れ着いた先々で花を咲かせていこう。流れに身をまかせるといっても、途中で嵐に会うこともあれぱ、急流に巻き込まれることもあるだろうが……。
在日の世界も、南北の問題も、日本人とコリアの関係も、流れるということを今までしてこなかったように思う。いつも澱み、湿り、風の吹き抜ける余地がなかった。
ワンコリアフェスティバルも、今流れ始めている。僕も流れ始めている。僕がワンコリアフェスティバルに望むことは、ひとつのところに固執しないで、ニューヨークに行ってみたり、中国に行ってみたり、あちこちにでかけてみることだ。ある意味では曖昧なフェスティバルでいい。ただ、さまざまな人々が何かの思いで集まるためのきっかけとなればいいのだ。いろいろな人間が出会い、刺激しあうことで、新しい何かが生まれてゆく。あまり狭いところに固執すると、人が集まれなくなってしまう。
曖昧であれば、曖昧さに対して厳しい批判が向けられることになるだろう。どっちかにせぇ。はっきりせぇ、と。でも、はっきりできないのだ。どちらもいいし、どちらも悪い。その中間で、何をなすべきか。その方法論を見つけるために、僕たちは精一杯勉強し、したたかで自由にならなければいけない。そして、ぶつかりあい、意見を言いあい、いいものを作っていかなくてはならない。
●狭間を吹き抜ける
●風となって曖昧といえば、僕自身曖昧な存在でもある。繰り返しになるが、僕は狭間にいる、流れ者のよそ者だ。だからこそ韓国に行って、日本の演劇を知ってもらうために日本の芝居をうつこともできる。韓国は一応建て前では、日本の文化を受け入れないことになっている。でも僕らはコリアンだからということで向こうに行き、日本の着物を着て芝居をする。
それりゃあ、驚くだろう。在日コリアンの芝居と聞いて見に行ったら、いきなり着物なのだから。そして彼らは口々に言う。こんな芝居を見たことは、今までになかった、と。
もし南北が統一されることになったら、僕は日本の側に立って、日本の演劇を朝鮮半島の人々に知ってもらうために、公演に出かけるだろう。その頃までに、何々系日本人 ―たとえば朝鮮糸日本人一みたいな概念が日本に根付くとよいのだが。
でも、日本もコリアも、しよせん同じアジアではないか。僕らはともに箸をつかい、正座をし、かつてはゆったりとした時間の中で、四季の移ろいに身をまかせて生きてきた。今、アジア的な時間の流れや価値観が、世界的に見直されている。そのような時代だからこそ、僕らはアジア人として、ともに歩いていけるはずだ。
北と南の間に38度線があるという。日本とコリアの間にも淵があるという。だが、世界のどこを見渡したって、過去の歴史において一度も紛争を経験したことのない国なんてないのだ。現在だって、アジアのあちこちで火種が燻っている。その事情を、どう乗り越えていくか。そこを考えるのが、知恵というものではないか。
一つの夢がある。
ワンコリアフェスティバルが、アジアの平和のための芸術の祭典になる日が来るという夢だ。どんな紛争をしている国の人たちも、その日は休戦してともに芸術を楽しむ。開催場所も、あえて紛争地域にする。それは、ワンコリアフェスティバルというものが南北の分断という紛争が出発点になっているからだ。たとえば38度線の上。たとえば、印パ国境上。そこで一年に一度、心の豊かさや人間性を取り戻すためのフェスティバルが行われる。そこでみな、平和に共存するための道を探ろうと、改めて心に誓う。
ワンコリアフェスティバルがそんな祭になればいい。僕は自分の芝居も、本来はそういう場所でやりたいと思っている。
とにかく、風通しをよくしよう。窓を開けよう。北と南が、日本人とコリアンが、言いたいことを自由に言いあえる風通しのよさが必要だ。僕は、隙間を抜ける風でいたいと思う。隙間を自由に吹き抜ける立場でありたい。隙間は、広ければ広いほどいい。最初は狭いかもしれないが…。
僕はアジアを流れる民として、これからもテントをかついで世界を歩き続けるだろう。大平原を自在に吹き抜ける、一陣の風となることを願って。(1994)
金守珍 (きむ・すじん)
1954年生。劇団・新宿梁山泊代表。
第3回ワンコリアフェスティバルより演出を担当。
79〜86年状況劇場を経て、88年新宿梁山泊を結成。
89年「千年の孤独」でテアトロ演劇賞受賞。
ドイツ、中国、韓国など海外でも公演を成功させ、
今年はアヴィニヨン演劇祭に日本代表として参加した。
この秋(1994)は、アジア三部作の第一弾「青き美しきアジア」をひっさげ、各地で精力的に公演を行っている。
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