言葉のレッスン

柳美里
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今年、七月八日から十二日まで、私は韓国にいた。私の戯曲、「魚の祭」を韓国の劇団が上演するというので、プロモーションと初日を観る為に呼ばれたのだ。
通訳は同じ歳(二十六歳)の大阪に六年住んだことがある温喜静さんという女性だった。従って訳される言葉は全て大阪弁──。

「同じ質問ばかりやな」喜静さんが私より先に苛立ちはじめた。

「そうやな。昨日のインタヴューで喋ったことを繰リかえしてんか」僅か一日で私にも大阪弁が伝染ってしまった。

「祖国で自分の戯曲を上演することについてどう思うか」「韓国籍や韓国のことを勉強しようとは思わないのか」

この二つの質問をどのインタヴューでも必ず打つけられた。予想していたのでパンフレッ卜にこう書いた。少々長くなるが引用する。

『祖国の人たちから見れば、私は典型的なパンチョッパリであり、祖国文化の源(言葉)に無関心な生き方をしていると思えるかもしれない。しかし私が戯曲を書き、劇作で仕事をしている根拠は、この私の生き方そのものの中にあると確信している。

このことを理解してもらうのは困難だと思うが、試みてみよう。

演劇はいうまでもなく、時間と空間の芸術であり、時間と空間を生み出すのは、ト書と俳優の肉体を通して語られる台詞である。私は母国語を書くことも喋ることもできず、他国の言語で芝居を書いている。しかしこのことが、私の戯曲の言葉を劇的にしているのだ。そして現代劇を必要としている国の言葉は、私の奇妙な言葉との関係と同じような問題を抱えているのだともいえる。

日本語を例にすると──、現代の日本人の四十代以下の世代は、中世どころか、江戸、ひょっとすると明治時代の書き言葉を読むことができないだろう。日本語の原になった漢文は殆どの人が読めない。つい百年前の日本人が、現代の若者の会話を聞いても理解不能だろう。(私が韓国語を理解できないのと同じように)。そして外国語の(日本では英語)夥しい氾濫がある。日本人の手によって、英語に精通していなければ到底理解できないような文章が書かれている。

日本の現代演劇に大きな影響を与えたのは、サミュエル・ベケッ卜の「ゴドーを待ちながら」であるが、イヨネスコの「授業」や「禿の女歌手」等もまた、繰りかえし上演されてきた。イヨネスコのドラマツルギイは言語の解体である。いいかえれば言葉のアイデンティティ(私も英語で意味づけている)の喪失である。イヨネスコの芝居が、他国の言葉のレッスンに示唆を受けたことは広く知られている。私が他国語で戯曲を書いていることの意味を少しは裏づけるものになるであろう。

直載にいえば、在日韓国人として、日本語に対して日本人以上に気を遣っていたことが、私を戯曲作家へと導いたということは、疑う余地がない』


七月九日、私は劇場のそばで金日成が死去したという号外を受け取った。
初日がはねた後、飲み屋で役者たちに酒を注がれ、咽喉がなめらかになると、我知らず片言の韓国語が私の口から飛び出した。

「韓国語を覚える気はありますか」とプロデューサーの鄭鎮守氏に訊かれた。

「ええ、まあ……」

鄭氏は、アボジやオモニが喋るのを小さい時に聞いているから覚える気があったらすぐでしょう、と満足げに頷いた。

私は酔って真っ赤になった顔を鄭氏に向け、「そうです、私は韓国語を知らないのではなく、失くしたのだと思っています」といったが、主演男優と盛りあがっていた喜静さんは訳してくれなかった。

数人の新聞記者たちも同席していたが、彼らは芝居の話をしていたかと思うと、すぐさま金日成の死と祖国統一がいつ頃かという議論をはじめ、また芝居の話に戻るという風だった。喜静さんは彼らの話を、小見出しをつけるように掻い摘んで訳した。

私は業を煮やして、「統一はいつ頃なんですか?」 私は彼らに訊いてみた。

「早くて三年、遅くても十年のうちには統一できるでしょう」と朝鮮日報の記者が答えた。

七月十日、金日成の死が発表された翌日、鄭氏と喜静さんがホテルに私を迎えにきた。寝不足でうつら、うつらしていると、鄭氏の運転する車は板門店の近くにある統一展望台に到着した。駐車場はいっぱいだった。通常の三倍近い人出なのだそうだ。

「もしかしたら統一が近いかもと、居ても立ってもいられなくて、みな此処に集まったのでしょう」と鄭氏が呟いた。

統一展望台に行く為には、たっぷり三十分は山道を歩かなければならない。日曜日のせいか家族連れが目立つ。子供も老人もみな言葉少なに早足で坂を上っている。炎天下だというのに、チマチョゴリを着込んでいる中年の女性が目立つ。

統一展望台で、イムジン河の向こうに存在する北朝鮮に目を凝らしながら、何か此処に集まった人々と同じ希いを抱いているような気がして、きつい陽射しに照りつけられている腕や背中に鳥肌が立った。

七月十二日。帰国(出国?)する日の早朝、私はKBSのモーニングショーに出演した。本番で、ニュースキャスターが打合わせにはない質問を突然打つけてきた。

「何故、韓国語で喋らないんですか?韓国で芝居を上演するならば、韓国の言葉を学ばなければ駄目ですよ」

喜静さんが訳す間もなく、目の色と声の調子で彼が何をいっているかがわかった。生放送だった。

私はクロッチィと相槌を打ち、カムサハムニダとぎこちない頬笑みを拵えた。

番組が終了した途端、女性キャスターが「せっかくきれいな顔をしているのに、何故お化粧しないの?お化粧しないでテレビに出るなんて──」と辣のある調子でいってきた。

「クロツナィ……カムサハムニダ……」私は再びそう呟いて収録スタジオを後にした。慣れない海外旅行で、サンキューを繰りかえしている日本人みたいだなと思いながら。

(1994)


柳美里(ゆう・みり)
1968年横浜生まれ。 小学生の頃、激しいいじめに遭い、読書と日記に熱中する日々を過ごす。中学2年の頃から停学処分を重ねる。この時期、衝動的な自殺を繰り返し、その心を癒すかのように中原中也、太宰治に傾倒。 高校1年で放校処分。16歳で東京キッドプラザースに入団、1年半で退団。
87年、単身「青春五月党」を結成、88年3月「水の中の友へ」の旗揚げ公演以降、年2回のペースで新作を上演。 作品テーマは死をめぐるものが多く、自身「私にとって芝居はお葬式です」と語る。
93年9作日の「魚の祭」で第37回岸田國士戯曲賞をつかこうへいと並ぶ最年少の24歳で受賞。鋭利な詩的言語で構成される舞台には、儚い美が存在する。
94年7月9日〜8月16日、韓国の民衆劇団が『魚の祭』をソウルで上演。
著書に「静物画」「向日葵の柩」(而立書房)、「ヒネミ/魚の祭」(宮沢章夫との共著・白水社)、「Green Bench」(河出書房新社)、処女小説「石に泳ぐ魚」(新潮社・11月刊行)、連載中エッセイに「家族の標本」(週刊朝日)、「窓のある書店から」(図書新聞)、「命」がある。

 

 

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