「出会い」に託す期待

若一光司

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私は、在日韓国・朝鮮人が多く住む大阪市淀川区三国で生まれ育っているが、私が通った小学校でも一クラスに一人か二人は必ず、韓国・朝鮮人の子弟が含まれていた。

当時、その子たちのほぼ全員が日本名を使っていたが、「○○は朝鮮人や」といった噂が広まったりするので、誰と誰がそうなのか、およその見当はついていた。そして、表面的には彼らと普通に付き合いながらも、裏に回れば大多数の生徒が、「あいつは朝鮮人やからクサイ」などと、露骨に差別的な会話を交わしていた。教師の中にさえ、「朝鮮人はみな暴力団みたいなもんや」などと授業中に発言する者がいたが、そのような環境の中で私自身も当然の如く、韓国・朝鮮人を「劣った存在」と見なすようになっていた。明確な理由もないままに、ただただ差別意識だけは、確実に増幅され続けたのである。

忘れもしない。五年生の三学期のことだ。
ふとしたことから級友のYと喧嘩を始めた私は、殴り負かされそうになった時、自分でも思いがけず、「おまえ、朝鮮人やろ。朝鮮人やったら、自分の国に帰ったらええんや─なんで帰れへんのや!」と怒鳴っていた。
「なにゆうねん。ぽくは朝鮮人と違うわい!ぼくは日本人や!」とYは血相を変えた。
「ほんなら、家に帰ってオカアチャンに聞いてみい。おまえは朝鮮人やゆうて、みんながゆうてるわい!」と私が追い討ちをかけると、Yは突然黙り込み、やがて身を翻すと、校庭から駆け去っていった。

その日以降、Yはかつての快活さを失い、無口で陰気な少年へと変身した。授業中に教師の質問に答える以外、ほとんど誰とも口を利かず、授業が終わると同時に、逃げるような早さで下校するようになったのである。
タチの悪いことに、私はYのその姿に胸を痛めるどころか、むしろ勝ち誇った気分でいた。クラス内で最も腕力的に‥拮抗していたYが自滅したことで、多分、天下取りを果たしたかのような奢りを感じていたに違いない。

私と在日韓国・朝鮮人との関係は、地元の三国中学校に進学してから、さらに悪化した。というのも、私は入学早々、在日韓国・朝鮮人を主とする不良生徒グループに敵視されるようになったからである。

卒業までの三年間、私は毎日必ず、通学カバンに自転車のチェーンを忍ばせて登下校した。

彼らに襲われた際に、それを振り回して応戦するのだ。相手は短くカットした鉄パイプや棍棒を持っているため、とても素手では対抗できなかった。この頃、何本もの一寸釘を打ち付けた角材で思いっきり腰のあたリを殴られたことがあるが、その傷痕は今も私の体に残されている。そして、そのような日々の積み重ねは、私をして一層、韓国・朝鮮人に対する反感を募らせるばかりだった。

そんな私が、韓国・朝鮮人に対する認識を改めるようになったのは、「画家になりたい」との希望に燃えて進学した大阪市立工芸高校の美術科で、一人の級友と親しくなったことに始まる。生野区に住んでいた彼は、幼時に父親が病死したため、母親の手一つで育てられていたが、最初から日本名で通していたため、私を含めた級友の誰一人として、彼が朝鮮人であることに気づかなかった。

だからその彼が、高校二年の時にホームルームで突然、「自分は本当は朝鮮人で、本名はKとゆうんや。今日からは朝鮮人として正々堂々と生きていこうと決めたから、みんなもこれからはKと呼んでほしい」と朝鮮人宣言をした時、彼とは親友のつもりでいた私は、天地が逆転したかのような衝撃を受けた。それまでKの前で平気で朝鮮人を蔑視した発言をしていただけに、なおさらである。

しかし、Kはそんな私に対しても、朝鮮人宣言をするに至った思いを熱心に話してくれただけでなく、私の中にある差別意識を率直に非難し、それが無知と偏見に由来するものであることも、戒めてくれた。

それ以後の私は、朝鮮人としての自覚的な日々を生き始めたKに導かれるようにして、朝鮮文化研究会の活動に参加するようになり、Kを取り巻く韓国・朝鮮人の若者たちとも交流を持つようになった。そして、逆境の中でも主体的に生きようと懸命に闘っている彼らの姿を目の当たりにすればするほど、身近になぜ大勢の韓国・朝鮮人が存在するのか、その歴史的経緯すら知らなかった自分の無知蒙昧ぶリを、つくづく思い知らされた。自分が差別者として過ちを重ねてきたことに対する、忸怩たる悔恨とともに。

それからの二十七年間に、私は多くの素晴らしい在日韓国・朝鮮人の友人に恵まれ、互いの生きざまや人間性を重ね合わせる中で、計り知れないほど多くのことを学び、また教えられてもきた。彼らとの関係を通してこそ、自分の何者たるかに覚醒した、と言っても決して過言ではない。

顧みて思うのだが、人間同士が互いに理解し合うためには、まず「出会う」にこしたことはない。「出会い」によってこそ、人間はより深く関係を結び合える。私はそのことを、特にKを初めとする在日の友人たちから教えられたが、「ワンコリアフェスティバル」の生みの親である鄭甲寿さんもまた、それを痛感させてくれた一人である。
鄭さんが孤軍奮闘しながら開催にこぎつけた「ワンコリアフェスティバル」は、回を重ねる毎に広範な支持を集め、まさしく、国境や民族や性別や年齢や立場を超えた「出会いの祭典」として、大きく育ってきた。私も五年前から欠かさず参加しているが、その度に幾つもの嬉しい出会い、予期せぬし邂逅に恵まれ、「ワンコリアフェスティバル」ならではの可能性を身を持って体現してきた。その実感からしても、「ハナ(ひとつ)!」の叫びは今や確実に、「ワンコリア」への希求を超えた広がりを持ち始めているように思える。

今年の記念すべき十周年フェスティバルに、私は司会者として参加することになっている。
その現場でまたどんな「出会い」が待っているのか、今から大いに楽しみである。

(1994)
若一光司(わかいち・こうじ)
1950年生。作家。
『海に夜を重ねて』で83年度文藝賞受賞。『最後の戦死者・陸軍一等兵小塚金七』その他の著作で87年度咲くやこの花賞受賞。小説以外にノンフィクションも手がけ、特にアジアに関するルポや評論を多数発表。1994年3月まで3年間にわたりNHKテレビ『アジアマンスリー』のメインキャスターを務める。『ペラグラの指輪』『逆光の都市で』『アジアとふれあう街で』『我、自殺者の名において』『二十世紀の自殺者』『万華鏡の割れた日に』など著書多数。

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