川西蘭
韓国料理(コリアン・フードと書くべきか?)で一番馴染みがあるのは焼肉だ。
今日は肉を食べるぞ、と気合いが入っている時には、必ずといっていいくらい焼肉を食べにいく。
焼肉を食べているカップルは深い仲だ、という意見もあり、実際、店でカップルを見たりすると、結構訳ありそうだったりもするから、深い仲ではない女の子と焼肉を食べに行く時には、ちょっと気を使う。
ぼくはビールを飲んで、焼肉を食べるだけで幸福なのだ、下心なんて全然ないのだ、とさりげなく伝えても警戒されることがある。
自意識過剰ってんですか?そういう女性は、フランス料理でもイタリア料理でも鮨でもしゃぶしゃぶでも警戒してしかるべきなのに、焼肉以外は結構ガードが甘かったりするから、訳が分からない。
焼肉よりもフランス料理のほうがずっと隠微でえっちだとぼくは思うぞ。
最近は、小奇麗な焼肉屋が増えて、ファッショブルな若者たちも出入りしているから、焼肉=深い仲の訳ありカップルというイメージは是正されつつある。
もっとも焼肉は、ふたりでそれこそ訳ありげにもしょもしょ食べるよりも、大勢でガーッと食べるのがいい。
あっ、それ、俺が手塩にかけて育ててきたカルビなのに、横取りするのは、ひどい!とか、へっへっへ、ちょうどいい焼け具合じゃないか、先に箸をつけたものの勝ちだもんね、とか言いながら、互いにガンを飛ばしあって、なおかつ友好的に食べるのが好ましいように思える。
この状況は鍋にも通じるものがあるのだけれど、焼肉の方が勝負が早く、より気合が必要だ。鍋は煮えるのに時間がかかるし、なんとなく他人を密かに出し抜く陰湿さがある気がする。(だから鍋奉行などという行司役が求められるのかもしれない)
焼肉を食べているカップルは深い仲だ、という思い込みは、肉はスタミナ源、スタミナをつけるとなんたらかんたら、と単純に連想が働くからだけでなく、焼肉のもつ格闘技性を世の人々はかぎつけているからかもしれない。
もちろん、この場合、格闘技とは、ショーとしての格闘技であって、決して相手は裏切らないのだととりあえずは信用して、互いの見せ場を作りつつ。くんずほぐれずの格闘を繰り広げることだ。本気の闘いではない。
この格闘技性は、ごく親しいものとの間でしか成立しない。たとえば、深い仲のカップル、たとえば、家族。
休日の夕刻、近所の焼肉屋に行くと、座敷でリラックスした感じで焼肉を食べている家族がいたりするけれど、あれはなかなかほのぼのとしていいものだ。
まさに家族の団欒。外食をして、なおかつ家族の団欒の雰囲気を維持できる場は少ない。
ファミリー・レストランやデパートの大食堂では、焼肉屋のくつろぎは出ない。
下町あたりの気取っていない牛鍋屋とかどぜう屋もいいけれど、その手の店は次第に高級化しつつあり、ちょっと敷居が高くなった感じもする。
焼肉の最大の欠点は、臭いで、これが排他性を高めている。一緒に焼肉を食べなかったものは、あの臭いをひどく不快に感じるのだ。どうせ私は仲間はずれだもんね、と思っていじけてしまうのである。
一緒に食べたものは、臭いなんか全然気にならない。それどころか、どれだけ臭いか競い合ったりもする。和気藹々である。
やはり焼肉はそろって食べるのが、一番いい、と最近、家族持ちになったぼくは思うのだけれど、離ればなれになった家族がもう一度同じテーブルで食事をするのは難しいことかもしれない。でも和気藹々と情緒豊かな焼肉を食べたいものだなぁ。(1994)
川西蘭(かわにし・らん)
1960年生。小説家。本名・川西宏之。
早稲田大学政治経済学部在学中の19歳の時発表した「春一番が吹くまで」で作家デビュー。
以後都会的なタッチの小説を次々と発表、時代の感性を代表する作家として注目される。
84年、初の書き下ろし作品「パイレーツによろしく」が映画化される。
主な著書‥「はじまりは朝」(河出書房新社)、「コーンクリームスープ」(マガジンハウス)、「ルルの館」「愚者の涙」(集英社)等多数。
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